したたかな京都の町、重層的な人間関係の中で(後編)

小山田徹|京都在住歴 45年

小山田さんの人生を語る上で、ダムタイプの活動、京都市立芸術大学での時間を外すことはできません。国際的にも注目されたその活動を小山田さんの視点から紐解きます。そして、その活動を織りなした日々の小さなできごとや、支えてくれた人たちの存在、京都の町でどのような交流があったのか、ハレとケのケのエピソードもお届けします。

取材場所は、京都市立芸術大学学長室

取材:2025年6月

家は開く

まだ家族がいなかった頃ですが、銀月アパートの2階の角部屋をゲストルームに改装してゲストに泊まってもらえるような取り組みをしていた頃もあります。京都はとにかく、放っておいても知り合いがぎょうさん来ます。海外からふらっと来た友人から連絡が来たりもする。だから、ゲストが泊まれたり、自分たちも楽しめる安い空間を持とうかなと思っていました。その頃にちょうど、知り合いでもあるルームマーケットから「銀月アパートが空くからどう?」と声がかかりました。「改装してもええの」と聞くと、「小山田さんやったら大丈夫」と言ってくれたので、ちょっと綺麗に改装して、そこをいろんな人が泊まれるようにしました。

そうすると、数珠つなぎでどんどん人が来てくれて。しかも銀月アパートは住んでいる人々がユニークだったので、ゲストが混ざりやすいことも良かった。山本精一さんなどミュージシャンの大御所がいたりするから、みんなが喜んでくれる。すぐにセッションが始まって、うるさい!と言いながらも楽しんでいました(笑)

最近は、自分たちでそういう場をつくらなくなっていると感じます。一番大きな問題は責任の所在で、そこはちょっと腹をくくる必要がある。銀月アパートも宿泊業として責任を取れる状態ではなかったから、そうするしかなかった。

たしかに痛い目に遭う時もあるけれど、良いことの方が多いと思うんです。公共というのは、元々そういう私有財産をそれぞれが出し合って、気が付いたら公共になっている。それぞれのちょっと開き始めたものが寄せ集まって、気が付いたら公共化しているというのが公共の元々の意味だったし、それが健全だと思います。自分の家を開くとか、アトリエを開くとか、住み開きという言葉はそういう背景から生まれた言葉ではないかとも思います。

京都はそういうことがやりやすい町。犯罪も起こりにくいし、ちょっとゆるい。学生の町だからこそ、昔から下宿に泊まるというのは当たり前に行われてきました。知らない人がアパートを出入りするのも、許容されていると感じます。銀月アパートではゲストからお金を取ることはしないけれど、泊まった人たちはこっそり引き出しに入れて帰ったりしていました。こういうのも自然な形ですよね。

銀月アパート (小山田さん提供)

多様な人が出入りするということは、自分の関係を開いていくことでもあると思います。さまざまな関係をたくさんもつことが、人生のセーフティーネットにもなり得ると思っていて。

例えば日本で身の危険を感じたら、海外に住んでいる友達がいればそこにも逃げられる。逆の場合でも、日本においでと言える。それは国内でも同じ。逃げ場、避難する場所がいくつもあることが大事だと思います。うちの子どもも家族で大喧嘩して家出するとなれば、その子にとってのそういうところに行きます。でも親同士はつながっているので、その親御さんから私たちへ連絡がきて「今、うちに来てるで」と教えてくれる。

こういう関係はセーフティーネットにもなるし、豊かさにも繋がると思っています。家族だからといって家族の関係だけに閉じこもるのが一番良くないようにも思っていて。私の知り合いで、旦那さんが海外で働くことになり、自分は日本で働きながら1人で赤ちゃんをを育てないといけない状況になった人がいました。それは大変だろうと思い、我が家で育児レジデンスが始まりました(笑)うちには子どもが3人いるので、4番目の子が増えたような感じで、全員がお兄ちゃん、お姉ちゃんになることができ、すべてが赤ちゃんファーストで進むので、めっちゃええことだらけでした。

その家族は遠くに引っ越してしまったので頻繁に会うことはできなくなったけれど、今でも家族ぐるみで関係が続いていてすごく豊かだと感じています。そういう家や関係を開いていくと、私の子どもは一体何人いるんだろうというくらい増えていくんですが、子どもたちにとってはすごく良いシステムだと思います。人様の場所にお世話になりに行くときの作法、あいさつできるか、何が失礼にあたるのか、片付けがいかに大事かを学ぶことができる。それに甘えるというのも上手にできてほしい。こういうことが子どもたちの訓練の場にもなるし、他者がやっていることを見ながら自分も学べたり。子どもたちも将来にわたってそうした関係をつくれる人になってほしいと思います。だから、家は開く。

銀月アパート (小山田さん提供)

京都に居続ける理由

京都はありがたいことに、資本主義のシステムがそんなに強くない感じがします。東京はメディアのあり方、いろんな企画の運営の仕方とかも、ものすごいスピード感でウェルメイドな資本が入った土壌でさまざまなことが起こっていくんですが、京都って微妙に鈍い。メディアの本社もそんなに無い。だからこそカルチャーがちょっと遅れて入ってきたり、緩やかに入ってきたりすると感じています。

あとは、京都は東京を経由しなくてもダイレクトに海外と繋がりやすい立場にありますよね。海外から京都に人が来てくれる、そういうチャンスがあるように思います。私たちダムタイプも実際そんな風に感じて活動していました。私たちの場合は、海外との関係の方が先にできてしまっていたので、東京は「しゃあないな」と言って公演をする、もしくはお金を稼ぐためにやるぐらいの思い出です。

京都は大きな貸座敷みたいなもので、常にいろんな人々が外から流入してきて、住んで、通過して出ていく。下宿の大家さんみたいともいえます。そうした人たちのことを町の人は「学生さん」と呼んで本当に冷ややかに放っておいてくれます。「多少のおイタもしゃあないな、学生さんやし」と。でも、そこまで迷惑をかけない限りは存在を許してくれる、そして繰り返しますが、放っておいてくれます。だから外部から来た人がそんなに急がされずに、コストパフォーマンスを考えながらもぞもぞできるのだと思います。そこから芽が出たり、国際的に有名になったり、成果が出ている人たちが輩出されているのですが、そうして評価がついてくると、急に賞をあげて「私たちが育てました」と取り込まはる。「“京都が育てた”ダムタイプ」と。「ずっと無視してたやん!」と思うんですけどね(笑)それは国際都市として生き残ってきた、京都の本当にしたたかなところだと思います。

そのしたたかさ故に、京都の町は自由なモラトリアムがもらえる都市なのだろうと思います。安く住もうと思えば非常に安く住める可能性がまだ高い町でもあります。共同で住むとかスポンサーみたいな大家さんのような方々もまだいるので。それに、これだけの密度で大学が存在しているこの規模の町は日本にはない。普通に生活しているだけで、隣で物理をやっているお兄ちゃんと美術をやっている子がアパートのお隣さんだったりするとかざらにあるじゃないですか。なんならそれが恋愛に発展してハイブリッドがすぐ生まれたり(笑)そういうのはすごくいいなと思いますよね。京都ってそういう魅力がある。すごくいい町だなと思います。

学生時代のアルバイト、大学卒業後も続いた下積み時代

私が京都市立芸術大学に入学したのは、キャンパスが東山区の今熊野から西京区の沓掛に移った最初の年だったので先輩たちの人間関係やアルバイト先は町中にある人が多かった。その影響もあり、授業の後に集まったりアルバイトをするのも京都市の中心部でした。飲みに行くぞとなれば、中心部に行くことを指していました。毎晩、沓掛から自転車で町中に出て、自転車で帰るということをしていました。大学から河原町まで11キロくらい。自転車が盗まれたら、歩いて帰る、そういう時代でした(笑)

実は私が京都に出てきた理由の一つは、学生運動をしたかったから。だから町中に出ていくことは憧れの一つでもありました。鹿児島にいた頃に先輩たちの話を聞いていたので、活動系の書物を読んだりしながら「よっしゃ、俺も!」と意気込んでいたのですが、もう入学した頃には、京大の西部講堂に行っても残り香しかなかった(笑)河原町荒神口にかつてあったジャズ喫茶、しぁんくれーるにもよく行きました。その頃、西部講堂ではハプニングなどパフォーマンスの前段階の活動が結構行われていて、アングラなライブやものすごくアバンギャルドだったりパンクなものも行われていました。時には警察がやってきたり。あとは、一乗寺にあった映画館「京一会館」にもよく行きました。昼はピンク映画の上映が多かったのですが、夜は名画座に変わるんです。そういうところによく出かけて、影響を受けていたと思います。

私のバイト先も必ず町中の方だったので、株式会社京都舞台美術製作所の大道具の仕事とか、洋酒喫茶ヴィオロンというバーで働いたりしました。そのバーは1950年代終わり頃から60年代にかけて学生運動の最中に、芸大の先輩たちがつくったバーで文化闘争の拠点でもありました。栗原小巻とか、あの辺の映画に出演したり音楽で注目されていた加藤登紀子や浅川マキらが出入りする伝説の飲み屋でした。

そこで仕事をするようになったのは、ダムタイプのオフィスが嵯峨野にあった頃です。そこの大家さんが伝説のママ、喫茶ヴィオロンのオーナーでもあったんです。カルメン・マキみたいな人で、本当にみんなのマドンナでした。その方はめちゃめちゃ雰囲気のある、美しいおばさまで、ロッキングチェアに座って肩からショールをかけた様子は迫力があって、まるで映画のワンシーン。離婚して、その権利として元旦那からその店をもらったようでした。バーは代々芸大生が雇われマスターをしていて、「雇われマスターやってみない?」と声をかけていただいたのが始まりです。

大道具の仕事は、上七軒の棟梁さんに声をかけられ、大道具の専属バイトとして棟梁修行をさせられました。ダムタイプがブレイクしなかったら、今頃は上七軒の棟梁になっていたかもしれない。上七軒の歌舞練場は日本で一番古い舞台機構が残っていて、全て手動だったんです。木造と竹で組まれたものなので古典的な舞台の機構が残っている。何の役に立ったのかは分かりませんが、すごく勉強になりました。同時に古典の演目も勉強させてもらいました。私の学生時代は京都らしい、花街や踊りの会の仕事がたっぷりありましたね。

京都市立芸術大学沓掛キャンパス (小山田さん提供)

重層的な人々

京都という町は、いろんな活動をしていた人々、いろんな時代を生きた人々が同時に住んでいますよね。飲み屋に行くと、そういう人々が重層的にいて、そういうのも面白い。許容してくれる人々もいれば、面倒くさいおじさんもいる。不思議なのは、一回りぐらい年下なら応援しようという人が多いように感じます。すぐ下は反発し合っているんですが、ちょっと離れると、すごくいい感じで応援してくれたりします。京都はそういう感じの町かな。いろんな人が住んでいて、範囲が狭くて密度が濃いので、いろんな人に出会うきっかけが生まれやすいのが特徴なのかもしれません。

京都のキーパーソンはたくさんいて、最初の遠藤寿美子さんに始まり、ディレクター関係の人々、棟梁、伝説のママさんとか。そういう人たちからディープな世界を知るようになって、その先々でまた多様な人間関係が広がっていて、世代を超えて付き合ったり、応援してくださったりする方がいる。

バイト先の洋酒喫茶ヴィオロンは、最初は常連の8人のお客さんしかいなくて、しかも全員が全共闘崩れのノスタルジーを抱えた、同じ話ばかりをする、ツケで飲むおじさんたち(笑)でも、だんだんと仲良くなっていき、ダムタイプが初めて海外公演に行くときなんかは、その8人のおじさんたちが1人ずつダムタイプオフィスに来て、「餞別や」と言って5,000円を握らせてくれました。こうした多様な人たちに支えられていて、本当にありがたいです。

京都は出自が多様な人たちの坩堝であってほしい

京都はなんだかんだ言って都市の生活があるという意味で都会ですよね。けれど、京都市の人口の約10%ほどを大学生が占めていて、毎年多くの人間が出入りする。その中には田舎から来た人たちもいるじゃないですか。自然たっぷりな環境とか、海沿いの町で漁業をやっていたとか、林業をやっていたとか、牛しかいないとか、産業はまったく何もないところで生まれ育ったとか。そうした多様な地域から、京都に来るという方が増えてほしいです。

自然と関わっている人々は、人間が一番ではないことをなんとなく、うっすらと知ってる人が多いように思います。そういう感覚が、都市の中には絶対に必要だと思うんです。そうしないと都会はどうしても人間をおごらせるような仕組みがあるというか、人間中心の思考になりがちだから。

農村の人々が都市に来ることは、なかなか難しいですが、大学がたくさんある町はそういうことが可能だと思います。田舎から都会に出てきて、都会の良さも知っていきながら、田舎の良さも都会の人に伝える。海外のもっと文化が違うところから来た人たちも、学問を通じて一定期間かもしれないけれど、ここで共に生活をするというのがしやすい町だと思います。それぞれの風土で育まれた多様な感覚をその人たちが京都へ持ち込んでくれる。出自の多様な人たちが、坩堝のような京都に集まることがすごく良いことなのではと思っています。これまでもそうだったと思うし、これからもそうであってほしいと思います。

>> したたかな京都の町、重層的な人間関係の中で(前編)

プロフィール

1961年鹿児島生まれ。京都市立芸術大学に在学中に友人達とパフォーマンスグループ「ダムタイプ」を結成。国内外で活動。1990年代頭にメンバーのHIV感染を機に、AIDSを取り巻く問題に対しての活動を始め、ダムタイプを離れた後、「共有空間の獲得」をテーマに人々が出会い交流する場の創造を活動とする。2010年から京都市立芸術大学の彫刻専攻の教員。2025年4月より同大学の理事長・学長に就任。

小山田さんの京都へのたどり着き方