町に寄り添う建築と、出会った京都の人々
本間智希|京都在住歴 13年
縁もゆかりも友人もほぼいない京都へひとりやってきて、そこから建築史をベースにその枠に収まらないさまざまな活動を展開してきた本間さんは今までに何度か、心を決めて大胆な決断をしてきました。大きな決断の奥には、本間さんの心を掴んで離さない京都の“何か”が隠れているのかもしれません。自分は無鉄砲だからと笑う本間さんへお話を伺いながら、その心を掴む“何か”を探ります。
取材場所は、ふとした出会いを経て人が集い、2023年から運営を行う下鴨ロンド。
取材:2025年12月
自分の原風景は、その地域の風景を作るような祖母の家
僕は子どもの頃は東京の町田に住んでいて、多摩地域と呼ばれるニュータウン開発がされたエリアで、団地とかマンションがたくさん立ち並ぶような、見渡す限り住宅街という風景の中で育ちました。
片や、母の故郷が静岡にある今の富士宮市、芝川が流れている富士山の流域で、お正月やお盆に祖母の家へ帰省するのがとても楽しみだったのを覚えています。
昔ながらの農家の家で、決して大きくなく文化遺産になるような立派なものでもないけれど、その後ろに山があって手前に田んぼがあってその地域の風景を形作る大切な要素の一部のようで…、そんな風景がすごく好きでした。

高校は当時住んでいた町田から西へ1時間半かけて八王子に通っていました。大学は早稲田へ進学したので、今度は町田から東へ1時間半かけて乗車率が200%くらいの満員電車で、もみくちゃにされながら7年間通いました。
大学院では、建築史の研究室に入り日本各地を訪ねて民家・集落調査をし、祖母の家のような風景がいろいろなとこにあるということを知りました。所属していたのは少し変わった研究室で、いわゆる建築史の王道の、文化遺産にするための調査ではなく、今和次郎(こん・わじろう)という研究者が約100年前に描いた「民家や集落の現在を再訪し、その民家や集落がおよそ1世紀でどういう風に変遷を辿ったか、その要因は何かを調査や研究する」という手法に主に取り組むゼミに所属していました。

東日本大震災で感じた、暮らしの先にある幸せは何だろうという問い
ちょうど大学院生として就活をしている時期に東日本大震災があり、町田市でも死者が出ました。
大震災は僕にとってすごく大きな出来事で、3つ、価値観が大きく揺さぶられました。
1つは、自分がそれまで学んできた建築家の小難しい理論や崇高な作品など一切関係なしに大地が揺れて、全てが津波によって流されたこと。自分が学んできた建築ってなんだったんだろうと思いました。
2つ目は、福島の原発事故があり東京も計画停電で電気が止まって、自分が当たり前だと思って生活していた暮らしが、言い方は悪いけれど、地方のリスクや犠牲の上で成り立っていたことをその時にすごく思い知りました。そのことに、あまりにも無自覚だった。
そして、一番決定的だった3つ目が、当時は原発事故で放射能が東京の方まで降り注いでくるかもしれないという漠然とした不安が東京で暮らす人たちの間で広まっていました。そんな時でさえ、翌日の小田急線は満員電車だったこと。
みんな、いつも通りに通勤する様子を見て、その暮らしの先にある幸せって何だろうと感じてしまったんですね。
ちょっと、東京じゃないなと思いました。東京じゃないところへ、自分の身を置いて暮らしたり働いてみないと、東京が世界の中心だと思ったまま生きてしまいそうだなと。そこでやはり東京から離れて地方へ行きたいと思いました。

東京では出会わなかった、人の広がりが感じられる京都へ
所属していた大学院の研究室は、学外から建築家や研究者などもよく出入りしていて、建築家の福島加津也さんが京都で展示やるよと持ってきたDMで、京都にRADというグループがあることを知りました。
RADは川勝真一さんと榊原充大さんが二人で2008年から活動を始めていて、当時はまだ自主企画としてトークイベントや展覧会が主な活動でした。
その時、京都に建築のリサーチをメインでやっている人たちがいるんだ、と知りました。調べてみると、建築史の研究室で定期購読していた建築家のレム・コールハース率いるシンクタンクのAMOとC-LAB(コロンビア大学)が共同で発行する「VOLUME」という実験的雑誌を自主翻訳したりしていて、とても興味を持ちました。でもこの人たち、面白いことをやっているけど、きっと食べていけないだろうなと(笑)。
当時はきちんと就職し10年くらい社会人経験を積んだ上で独立して、大学院で学んだリサーチをベースにした建築の仕事をやれたらいいなと考えていたんですね。就職活動では某マスコミのディレクターを志して、最終面接まで行ったけれど、残念ながら結局は希望のところはだめでした。
その時ふと、京都を拠点にしているRADを思い出しました。
当時の2012年は、それまで二人体制だったRADに木村慎弥さんが加わって、頼まれ仕事や案件が増えてくるような時期でした。
HAPSから依頼を受けて、解体から施工までを全部ワークショップ形式でやっていくとか、左京区にある大見新村という廃村を再生させるプロジェクトも始めるタイミングでした。
それまでRADって、何かシュッとしてるな、くらいに距離を置いて見ていたのが、急に自分の興味関心に近い民家や集落のプロジェクトを始めて、一気に関心が高まりました。
そして、きっと苦労するだろうけれど、10年後を見越してまずは就職という選択肢ではなく、若いうちにしか無理はできないだろうから、とりあえず思い切って飛び込んでみたらどうか、と考えたんですね。
ちょうどその大見新村プロジェクトをスタートさせるから、プロジェクトメンバーを募集します、という川勝さんのSNSの投稿を見て、それでコンタクトを取ったのがきっかけでした。当時、河原町三条にあった事務所へ手土産を持って行き、雑居ビルの入り口で緊張しながら待っていると、川勝さんが自転車でやってきて、というのが最初の出会いでした。

その後、夏休みにも京都へ来て、RADのプロジェクトをインターンという形でお手伝いしました。
その時は川勝さんのおばあさんの家が北山にあり、そこへ泊まらせてもらいました。そこは男6人ぐらいでも一緒に住めるほど大きな一軒家で、さらにいろいろなゲストが泊まりに来るような、そんな感じの家でした。その家には特別な名前もなく、「川勝家」と呼んでいたと思います。
その他にも川勝家とお互い行き来したり交流のあった「でんかハウス」という場所が蹴上にありました。女性3人で住んでいて、1階のスペースでは読書会や上映会などをされたりして住まいをひらく、ということをされていました。鞍馬口のあたりにある独立型の21世紀型公民館「Social Kitchen」の人たちとも交流があったり。川勝家へ滞在させてもらいながら、そんないろいろな京都の人に出会って、それまで東京では同世代や同じような興味関心の属性に帰属しながら生きてきた自分が出会わなかったような人の広がりみたいなものを感じて、すごく面白いなと思いました。
さらに川勝さんが、京都へ来るんだったら川勝家に住んでもいいよと言ってくれたんですね。しかも家賃5,000円で(笑)。RADというのはフリーランスの集まりだから、固定給なんてないよっていう話もされましたが、家賃が5,000円だったらいけるかも、と思って心を決めました。
大学院を卒業した2013年春、京都の川勝家に引越してきました。
でも引越し後に、川勝さんから「そろそろ結婚予定で、2年後にはこの家に家族で住むと思うから、2年間限定ね」みたいな話があって(笑)。とりあえず2年間は住む場所があるという安心を得ながらも、その後は何とかしないとな、と思いながら京都での生活が始まりました。
移住後すぐにできた、京都と人との新しいつながり
2013年の第1回KYOTOGRAPHIEをHAPSの芦立さやかさんが手伝っていた繋がりで、HAPSと付き合いのあるRADからは木村さんと僕の二人が関わりました。
引越してきた日にまず自転車を買って、翌日はKYOTOGRAPHIEの開幕前日。超修羅場な混乱の渦の中に放り込まれて、圧倒されました。
「何やったらいいんですか?」って近くにいる人に聞いたら、「僕もわかんないです」って返してくれたのが、今は副産物産店として活動している山田毅さんでした。
彼もちょうど東京から京都に越してきたばかりで、同じく芦立さんとの繋がりから、KYOTOGRAPHIEを手伝っていました。
その時の仕事は各会場のスタッフさんのシフトを組んだり、現場のフォローをしたりするもので、毎日さまざまな現場のトラブルがある中で、ひたすら各会場を自転車で移動して、気がついたら夜になっている、という感じで1ヶ月半ぐらい過ごしました。
そんな風に縁もゆかりもなく友人もほぼいない京都で、今も付き合いが続く知り合いが増えたり、京都の町を明け方から晩まで走り回って通り名を覚えたり土地勘をつけられたことは、当時は本当に大変でしたが、今となっては良い経験になりました。
5月中旬にKYOTOGRAPHIEが終わり、急にぽっかりと時間ができて早朝バイトを始めました。昼前くらいにバイトを上がり、そのままRADの事務所でプロジェクトの仕事をする毎日でした。
その頃RADのプロジェクトでは、主に大見新村プロジェクトに関わりました。移住してきた2013年から3年間は、事務局長みたいな感じで雑務全部をやったり、行政のいろいろな交付金や助成金の申請をしたりと中心的に携わりました。
しかしなかなか大変で...(笑)。事務局長として業務をしても固定給が出るわけではなく、助成金を申請するのは自分なので、誰かに謝礼は払えるけれど、自分がもらえるわけではありません。だんだんと疲弊してきて、建築調査や「アネモメトリ」というウェブマガジンの編集補助や花火屋などバイトをかけもちをするけれど、収入が十分に入ってくるという状況ではありませんでした。同じ時期にもう1人、同世代でRADに関わってくれて苦労を共にした人がいたのですが、夜な夜な「お金がないとやりたいこともできないんだな」と語り合ったりしていましたね。
そんな頃、ありがたいことに大学院時代の指導教員から「どうせ暇だろう」と電話がかかってきて、ヴェネチアビエンナーレ国際建築展 日本館展示のプロジェクトにお声掛けをいただきました。
2014年の日本館展示に指導教員がディレクターの立場で関わるタイミングで、日本館は安藤忠雄さんや伊東豊雄さん達がまだ20代だった1970年頃を軸にしっかりとリサーチして展示をしようとしていました。
大きなプロジェクトなので、RAD全員で関わることになりました。2013年の秋から2014年の春くらいまで、関西を中心に国内の建築家や建築史家、ゼネコンなどにヒアリングや建築資料の保存状況に関するリサーチをしました。リサーチ自体もそうですが、少し世代が上の研究者や写真家の方々とご一緒し、とてもいい経験をさせていただきました。一段落したら、第2回KYOTOGRAPHIEが始まるタイミングに。KYOTOGRAPHIEは第3回まで運営チームの一員として、各会場のスタッフのマネジメントで関わりました。

川勝家を出て、学生に優しいまち吉田で鴨東棲家をひらく
そうこうしている内に、京都へ来た頃に言われていた2年後、川勝家から出る時期がいよいよ迫ってきました。
当時は空き家の活用として物件紹介もしていたHAPSで当時その事務局だった、はがみちこさんとそんな雑談をしていたら、タイミング良く明日リリースしようと思っているシェアハウス向きの一軒家の物件があるよ、と教えてもらいました。
僕は白物家電を持っていないのに本はたくさん持っているので、何とかして川勝家と同じような環境を手に入れたいと思っていたんですね。そんな矢先に、はがさんからの物件紹介。翌日すぐに見学へ行き、他に同居する人のアテもないのに借りますと言って、引越しをしたのが2015年の春でした。
2階に5部屋ある下宿用に建てたような家で、オーナーさんとしては一棟まるごと活用や管理をしてほしい、という思いでHAPSさんに相談したそうで、そこへ僕が運良く出会いました。
でも僕一人入ってもあと4部屋が空いているので、他に一緒に住んでくれる人を探すしかありません。そこから運良く京都大学の言語学を専攻している友人や、さらにその友人、そして引越しを手伝ってくれた建築の学生も入居することになり、取り敢えずの条件を確保できました。半年後にはもう一人入居して合計5人の暮らしになりました。
その時はHAPSさんも間に入りながら、日常的には僕がオーナーさんと直接やり取りをして運営をしていました。
そのシェアハウスの名前をつけようと考えたのが、永井荷風の濹東綺譚(ぼくとうきだん)のように漢字四文字にしたくて鴨川よりも東側にあるので鴨の東と書いて、「鴨東棲家(おうとうすみか)」でした。「鴨東」という言葉は、実は京阪電車の三条駅から出町柳駅までが鴨東線という名前だったり、このエリアのあちこちでその名が散見されます。
結局、僕が結婚するまでの5年間をそこで暮らしました。結婚しなかったらずっと住んでいただろうと思うほど、吉田の町は肌が合っていて好きでしたね。
鴨東棲家は1階に共有スペースがあり、東京などから知り合いが泊まりに来てくれたり、いろいろな研究者のスライドを見たり、学生が上映会をしたり、人が入れ代わり立ち代わりやってきて楽しかったですね。
また鴨東棲家のある吉田は、京都大学に近いこともあって安価な食堂や酒場が幾つもあったり銭湯があったりして、学生に優しい街だな、と思います。京都全体がそうですけど、特に吉田はそう感じました。鴨東棲家の隣の駐車場は毎年地元の祭りで夏の夜市の会場になって、テラスの下が事務局として使われたこともありました。

北山杉の里の風景を作っている一軒家を、個人で買って残すという決断
鴨東棲家で暮らす半年ほど前、京都工芸繊維大学の建築史・都市史の清水重敦先生からの紹介で、2014年の10月から奈良文化財研究所(奈文研)の景観研究室で研究アシスタントとして働くようになりました。2016年には任期付研究員へ昇格して正式に就職し、文化的景観という領域の調査研究に従事しました。とりわけ私個人としては、京都市北区の中山間地域である北山エリアにある中川という集落の調査に明け暮れました。京都の吉田に住みながら奈良に出勤していましたが、調査研究のフィールドも京都だったのでタイミングも良かったです。
120軒ぐらいの集落である中川は、北山杉を加工してつくられる北山丸太の産地で、(下鴨ロンドの部屋の)そこの床柱もそうですが、ちょっとシワシワした絞(しぼ)と言われる木肌が特徴です。中川地区をはじめとする北山には北山丸太の製造のために出来た林業倉庫がたくさんあります。とても急峻な谷の集落で、他の地域には無いような独特な建築の林業倉庫がたくさんあり本当に唯一無二です。
奈文研が調査をする時は、景観研究室の先輩同僚だった造園学が専門の惠谷浩子さんとともに、北山林業がすごい産業であるというだけでなく、集落の景観の調査もした方がいいと考えました。その土地に根ざした生業や暮らしによって培われた建物だったり集落の形だったり、風景をどうやって残していけるか、どう保全していけるかということを念頭に調査に入らせてもらいました。
僕は建築担当で各家に伺って、大学院の時のように建物の実測調査をしたり、どう暮らしてきたか、どのように増改築をしたかという変遷や、使われ方みたいなものを調査させてもらいました。中川の地元の方にもとてもお世話になり、知り合いが増えました。
そこへ、「あの家は空き家だから、いくらでも実測していいですよ」と言われ紹介してもらった一軒の空き家に、一目惚れをしてしまったんです。

その家は、長らく老夫婦が住まれていたようですが旦那さんが亡くなって、奥さんも高齢になり施設に入ってからは空き家となってしまったようでした。相続された近所の親戚の方も困っていて、なかなか買い手が見つからず「解体して更地にしようかな」ということを話されていました。
でも解体したらもう二度と、この地域に寄り添うようなこんな家は建てられない。それで非正規雇用の身分にも関わらず一念発起して、その家を買おうと決めてしまいました。それが2018年2月です。
無鉄砲なんですよね、僕は。重々自覚しているんですけど(笑)。
でも自分が何とかしないとって勝手に思ってしまうところがあるんですね。

一人では残せなくても志をともにする仲間となら、残せるかもしれない
同じ時期にまた別の空き家の所有者さんからも「本間さん達だったら」と、ご相談をいただきました。
けれどさすがに個人で2軒も買うことはできない。それで、こういう地域を面白がってくれる人たちを集めて一緒に何かすることができないか、と考えました。そして北山舎という一般社団法人を2019年に奈文研を退職したタイミングで設立し、その法人でその空き家を購入させてもらいました。
北山舎を共同設立した一人が、kumagusukuの矢津吉隆さんです。
もともとの出会いは、京都市立芸術大学(以下、京芸)移転のプロジェクトを一緒にしていた頃でした。
話が逸れますが、2017年の時に京芸移転に関するプロポーザルがあるというので、そこに応募しようという建築家から、京都で建築のリサーチ活動をしているRADにもぜひ関わってほしいとお誘いいただきました。
そこで、京芸出身の矢津さんや当時京芸の博士課程にいた山田毅さん、contact Gonzoの松見拓也さんに、大阪ベースでデザイナーの原田祐馬さん率いるuma/design farm、多田智美さん率いる編集事務所のMUESUM、アーキビストの齋藤歩さんなど、建築の設計を職能とはしない人達で、リサーチ・機運醸成チームを組みました。幸いにもプロポーザルでは私たちのチームが選ばれ、移転プロジェクトでもリサーチ・機運醸成チームとしても継続して並走することになりました。
そんな時に矢津さんへ北山の話をすると、矢津さんも面白そう、と興味を持ってくれました。
矢津さんたちは山田さんとともに京芸移転のプロジェクトを通して副産物産店を始めた頃で、制作現場やいろいろなところから廃棄されるようなものを収集したり、アップサイクルして精力的にアート作品を制作したりしていて、保管や制作場所に困っているタイミングだったんですね。ちょうどその時に中川の山主の方が所有する大きな林業倉庫が空いているという話があり、法人として借りることにしました。
せっかくなので、何組かでシェアアトリエのように使おうと話して、北山ホールセンターという名前で活用が始まりました。
北山ホールセンターは現在もよく稼働していて、副産物産店の他にも、櫻井仁紀くん中心の「ものや」という古道具やプロダクトのスタジオや、手塚賢太郎さんという家具什器系の木工の方、衣笠を拠点にしている木村松本建築設計事務所は自分たちも建築をやっている立場だから林業地域の産地と関わりたい、と参加しています。
一目惚れして2018年に購入した北山の家は、購入してすでに8年が経つのですが、まだ住むことが難しい状態です。少しずつ直して、ようやく建物は健全化できて、後は水回りを作るだけという段階で改修資金が尽きてしまったので、今は現場を寝かせています。
2021年春にはクラウドファンデイングも達成し、ありがたいことに多くの支援をいただいたのですが、もう1軒も加えた4軒の古く傷んだ建物を同時に再生させるには資金がまだまだ足りず、なかなか思うように拠点を整備できていません。多くの方からご支援をいただいたのにじくじたる思いです。北山舎として今後どのように活動を軌道に乗せていくか模索中です。
乗り越えるべきハードルは多くて高いのですが、地域内外の方を巻き込みながら、地道にやり遂げたいと思っています。

取り壊される建物を“看取る”ということ
少し時代が前後しますが、京都へ移住した当時、暮らしてみると京町家や街角のたばこ屋さん、お地蔵さんの祠などに、さまざまなタイルが貼られていることに気づき、SNSなどで投稿するようになりました。そんな時にRADの繋がりで京都精華大学でタイルに関する研究と美術製作をされていた中村裕太さんと、その指導教員だった芸術学・写真史・視覚文化論を専門とする佐藤守弘先生との間で、タイル面白いよねと話が盛り上がり、都市表層研究所テグラという名前をつけて活動を始めました。
都市表層研究所テグラの活動としては、HAPSさんの企画で周辺のタイル物件のリサーチやワークショップ、トークイベントをして活動としては終わったのですが、岐阜県多治見市にあるモザイクタイルミュージアムの前身のモザイク浪漫館から開館準備のための展覧会依頼があり、中村さんと一緒に多治見へ行き展示企画をしました。
また、吉田の鴨東棲家に住んでいた頃に、当時花園大学にいた仏教学の師茂樹先生から佐藤先生へ、「調査で入った家の玄関にとても素敵なタイルが貼ってありますよ」という連絡があり、佐藤先生が繋いでくださって、見に行ったのが「静坐社(せいざしゃ)」との出会いでした。
そこには本当に、ものすごく美しいタイルがあって感激しました。泰山タイルが有名ですが、さまざまな釉薬で彩られた美術タイルが使われていた家でした。ただ師先生が出入りするきっかけも、その家を取り壊す前の資料調査でした。つまりその建物の解体はすでに決まっていました。建物を壊すことは決まっているけれど、何とかそのタイルを残せないか、別の形で建物を遺すことができないかと模索を始めました。
建物が解体される前の記録を取ったり、レスキュー(解体現場から部材を生かし取りすること)をしたり、さらには解体される建物で何かクリエイティブなことができたらいいなと思いました。当時はまだ京都でアーティストの知り合いが多くはなかったので、東京時代の友人だった黑田菜月さんという写真家と、黑田さんの友人で吉開菜央さんという映像作家が来てくれました。そこで写真を撮ったり、映像作品を撮ってくれたりしました。
後の2021年に、出町座で吉開監督の特集が企画され、静坐社で撮影された「静坐」という短編映画が上映された時に、レスキューしたものや資料を展示したり、写真家や木工作家らの作品を展示した静坐社展を開催しました。静坐社でレスキューした美術タイルの多くも多治見市のモザイクタイルミュージアムに収蔵してもらったりして、今はミュージアムで常設展示してくださっています。
それが、僕が解体される建物からレスキューを始めた最初の物件でした。町の風景となっていた建物の終末期にそばで寄り添い、いろいろな形で記憶を残していく、まさに看取りのようでした。静坐社以降、ご縁があるたびに解体現場に入らせていただき、風土公団という名のコレクティブとしてさまざまな協力者とともに記録や部材のレスキューの活動をするようになりました。
タイルにのめり込んで、ぐっと関心が高まっていったのもこの辺りからです。

静坐社から、下鴨ロンドへ
静坐社の解体が2016年の4月ぐらいから始まり、その頃は奈文研で働きながらも、静坐社の解体現場に通って、という日々でした。そんなある日、そういえば下鴨の川勝家に暮らしていた時にも歩いたことがないな、と思った下鴨の細い通りを歩いてみたら、空き家の洋館がある!と見つけた建物が、いま下鴨ロンドとして使わせていただいている建物です。
フェンスのちょっと外のくぼみから、水栓が見えて、そこにタイルが貼ってあるのを見て、そのタイルがいかにも戦前らしい風合いのタイルだったことから、これは古い家だろうと印象が残りました。
京都では、このような文化財にはなっていない名もないけれど古くて素敵な建物が、次に行ってみたらもう更地になってしまっている、ということがこれまでに何度もありました。文化財になっているかどうかは問わず、町の歴史を伝え風景を作っている文化遺産が京都にはたくさんあって良いなと思う以上に、ものすごいスピードでそれらがなくなっている現実を目の当たりにして、喪失感ばかりが募ってしまいます。
その時は、静坐社の解体のことで気持ちがいっぱいで、特に何かをすることなく、その場を去りました。

自分としてはとても思い入れのあった静坐社の建物の看取りが、静坐社展を開催できたことでようやく一段落した2021年秋に、そういえばあの時に出会った下鴨の洋館、まだあるのかな、と思い出して見に来たら、まだ建物があったんです。初めて出会ってから5年半が経っていました。
当時は建物の前の駐車場をご近所さんに貸していて、そのフェンスに駐車場管理の不動産会社の看板があり、多分駐車場と建物は同じオーナーさんだろうなと思って、意を決してその看板にある不動産会社へ電話をしました。
電話口の柔らかい感じの担当者さんへ、建築を勉強しているので中を見せていただけませんか?とお願いをすると、オーナーさんに繋いでくださいました。
洋館の中へ入ったら作り付けの棚やタイルもあり、これはすごいと思いました。
静坐社はもう解体されてなくなってしまったけれど、ここはまだ残っている。何とかして使わせてもらえないかと思いました。
その不動産会社にオーナーさんを繋いでいただき、資金も含めて全部僕らの方で何とかするので貸して頂けませんかと初めてお会いしに行って交渉したのが2021年の12月22日でした。日付まで覚えているのは、その翌日に僕の子どもが生まれたからです。人生が動くような2日間でした。
オーナーさんとしては当初貸す予定はなく、取り壊して駐車場にしようと考えてらっしゃった。けれど跡継ぎの長男さんがアメリカ在住で忙しくなかなか話が進まなくて、しかもコロナ禍もありうまく進んでいなかった所へちょうど僕の連絡が入った、というタイミングでした。
オーナーさんはこの家に嫁がれた方で、旦那さんがこの家で育ったんですね。ご自身も新婚時代は住んでおられたそうですが、自分の旦那さんが育った家だから、残せるものなら残したいとおっしゃってくださいました。
いろんなやりとりを経て貸していただけることは決まったけれど、借りる条件や活用方法や運営方法の調整に結局1年ぐらい時間がかかりました。
その間この家の歴史や、家をどういうふうに使われていたかを聞きながら、資料を見せていただいたりしてオーナーさんと関係性を築かせていただきました。契約前ですが、何度か空き家に入らせていただき、掃除や片付けをしたりしました。
2回目に中へ入らせていただいた時に、間取りなど実測をさせていただき、さらに屋根裏にまで登らせていただきました。そうしたら屋根裏から棟札が出てきたんです。最初に話した芝川の祖母の家の屋根裏にも棟札が残っていますが、棟札には上棟した年月日や施主の名前、工事に関わった大工など職人の名前が書いてあり、建物の由緒を知る手掛かりになります。
棟札には昭和7年5月吉日上棟、設計施工をしたのはあめりか屋と書いてありました

いろいろな人が出会い集って、下鴨ロンドになっていく
お!あめりか屋!と大興奮しました。
あめりか屋は、日本の近代建築史を勉強すると必ず名前が出てくるほど日本の住宅の近代化に貢献した会社で、明治に東京で創業した日本で最初の住宅専門の建築会社と言われています。
「そういえば、あめりか屋って京都にまだ残っていたような」とネットで調べてみると、会社のウェブサイトのトップページのお知らせ欄に“創業100周年に向けて企業誌を編纂していて、戦前の自社物件の情報を求めています”とあり、すぐにメールをしました。
しかも偶然ですが、あめりか屋の会社は下鴨にあるんですね。社長さんがすぐに自転車に乗って駆けつけてくれました。
僕がこの家をどうにか活用させていただきたいと所有者さんに交渉したいと思っている、と話すと、社長からも「それはぜひ頑張ってほしい」と言ってくださって。その後、僕が京都の中川でも活動していることを知った社長が、小学校時代の同級生が中川にいて定期的に遊びに行くよと意気投合しました。僕も奈文研での調査でお世話になった地元の方の1人でした。
どこで何が繋がっているか分からないのが京都ですね。面白くもあり、少し怖いところでもあります(笑)。
活用にあたっての問題はまず第一に費用でした。修繕や改修のためのイニシャルコストをどうやって捻出するか、確保するかというところで契約前の1年間は苦戦していました。
そうこうしているうちに、あめりか屋の社長が個人として無利子無担保で最低限の生活インフラの復旧など第一期工事の改修資金を立て替えてくださるという話になりました。工事や備品などを、あめりか屋が発注していただく形で。
あめりか屋も、自社の戦前の物件が年々解体されていくような状況で、ここがまだ先んじて活用に動きがあるので、何とか軌道に乗せてもらいたいという社長の思いがあってのことでした。それで最低限の資金面でもなんとか目処がつきました。社長の心意気のおかげでスタートを切ることができ、あめりか屋の社長には感謝してもしきれないです。
では建物をどのような形で活用するか。
僕は建築の歴史の研究者ですが、これまで話した通り所属も安定しない、いわゆる在野をベースにした研究者です。しかし同世代の研究者も大学に属していたとしても任期付きで所属が不安定だったりで、所属や分野に限定されない研究者のためのオルタナティブスペースがあると良いなとずっと思っていました。吉田の鴨東棲家の時も同じような場になっていましたが、より静かな環境なので、アートのイベントなどで大勢が集まって賑やかな場を作るよりも、じっくりと過ごすのに向いている環境ではないか、と思ったんですね。
オーナーさんとやりとりをする中でも、いつでも誰でも来られるようなカフェやゲストハウスにするのではなく、やっぱり基本は家として扱うということと、住所非公開の会員制シェアスペースで、出入りはあくまで紹介制で、というコンセプトになっていきました。
そして工事をし始めると同時に、会員を募集するためにSNSで投稿したら結構反響があり、DMが60件ぐらい届きました。やり取りをした中で一緒にやっていけそうな方に、まず見に来てくださいとお伝えしました。
まだ全然改修も何もしてない、ザ・現場の状態だったのに、それでも一緒にやろうと惹かれてくださった方たちが最終的に10人ぐらい集まりました。
古い建物が再生されていく、そういうプロセスに自分も関わりたいと言ってくださる方や建築が専門ではない方たちがほとんどで、まだ使えない状態から会員になってくださり、共に共同運営者のような形で下鴨ロンドがスタートしました。それが2023年4月ですね。

出入りする人も会員も少しずつ増え、4年目の2025年は、会員30組です。組と言っているのは家族は1口として数えてOKとしていてご夫婦や兄弟で1口とか、親子で1口という方もいます。
会員の半分ぐらいは京都や近郊の方で、仕事場や打ち合わせ場所、あるいは勉強会や料理教室など趣味や企画で使われています。もう半分ぐらいがちょっと遠方に住んでいる方々で、割と頻繁に京都に来られるときの滞在拠点として使われています。
下鴨ロンドは定期借家契約(定借)10年という契約でお借りしています。ここは昭和7年に建ったので、もう築90年以上の建物です。2023年から10年かけて少しずつ使いながら、少しずつ直していくという建築プロジェクトでもあるんですけど、築100年に向けて少しずつやっていけたらと考えています。
京都にたどりついた本間さんが見えること
広い意味で文化遺産と言われる、古くて素敵な建物を維持管理して後世に残すことは、想像を絶する苦労があります。私自身もそれを北山や下鴨でやりながら痛感しているところで、代々住み継がれてきた所有者さんの苦労を思うと本当に頭が下がる思いです。
しかし人口減少時代においては、代々住み継がれてきた所有者さん個人の努力でどうにかなる時代ではないと思っています。それを私のような余所者の個人が熱意だけで引き継ぐのも少し違うなと感じています。個人から個人に負担が移っただけではないかと。
そうではなくて、文化遺産を好きな有志たちが少しずつ負担し合って、メリットも享受し合い、責任やリスクも分散できるような、今の言葉で言うと文化遺産のシェアリングエコノミーと言いますか、そういう文化遺産の残し方の仕組みを考えたいし、作っていけたら良いなと思っています。
この建物だけを残せれば良いというわけではないので、まだ始まったばかりで試行錯誤の連続ですが、下鴨ロンドでの経験や人と人との繋がりを、今後も広げていけたら良いなと思っています。
プロフィール
建築史家。1986年静岡に生まれ、東京で育つ。早稲田大学大学院建築史研究室を修了し、2013年に京都へ移住。同年より建築リサーチ集団「RAD」に参加。2014年10月から2019年3月まで、奈良文化財研究所で文化的景観の調査研究に従事。2019年4月に京都北山の文化遺産の保全と風景の継承を目指す一般社団法人「北山舎」を共同設立、代表理事を務める。
2023年4月より戦前の洋館の保全と活用をめぐるコモンズ「下鴨ロンド」を主宰。解体される建物の看取りを行うコレクティブ「風土公団」を主宰したり、半解体を通したリサーチ活動を建築設計事務所と協働するなど、その活動は多岐に及ぶ。