何か返さなければ

加山幹子|京都在住歴 7年

全身黒色のお洋服に身を包み、かっこいい空気をまとって淡々とお話しされる加山さん。けれど、仕事に対する真面目な姿勢や、まわりの方から愛され、つながりを大切にされる人柄、坐禅では寝てしまうといったお茶目なところなど、色とりどりの表情を見せてくださいました。
取材場所は、加山さんの住居兼アトリエ。

取材:2024年10月

京都に来て7年目になります。今は書家として毎年個展を開くなど作品制作を行っています。上手な字、というよりは何か魅かれるような、現代アートとして着地するような書を目指していて、美術系の画集などをよく眺めながらインスピレーションを受けています。書道は素晴らしい書き手の方がたくさんいらっしゃいます。そうした伝統がしっかりと確立されている場所より、「書はこういうやり方もあるかもしれない」とニッチ産業を開拓するような生き方が自分には合っていると思い、取り組んでいます。

でも実は、京都に来た最初の理由はお茶を学ぶためでした。その前は東京のHIGASHIYAという和菓子屋で働いていて、菓子の勉強のために毎月京都を訪れていたことも関係して縁があったという感じです。書との出会い、就職を挟んで、書を再開してから京都に来るまでの流れをお話しします。

好きな文字との出会い

小学生のときに兄が書道を習い始めたことをきっかけに私も始め、中学3年生まで続けました。その時に習っていた先生が、今まで教わった先生の中で1番上手で、自分の好きな文字だったと思います。女性の先生でしたが力強い筆跡で、筆が生き物のように伸縮する姿は永遠に見ていられました。その先生に比べて友達が習っている書道教室のお手本の字は生意気にも全然上手いと思えなかった。当時は、自分が友達よりも上手な先生に習っているという圧倒的な信頼感があったから続けられたのだろうと思います(笑)

小学校、中学校では書道で賞をもらうこともできました。中学の担任の先生に「加山には自分の字が下手だから見せたくない」と言われたこともあります。当時はギャル文字に憧れて、可愛い文字の練習までしていたのですが友達に果たし状のような文字だね、と言われて可愛い文字への憧れはすぐに消え失せました。

高校では習わず、芸術の授業でやった程度です。芸術の授業は選択制で、第1希望の絵画は人気で断念し、第2希望の書道に決定。すると1回目の授業の後から、書道の先生と廊下ですれ違うたびに書道部へ勧誘されたのは良い思い出です(笑)当時は陸上部に所属していて、文化系の部活には興味がなく入部もしなかったのですが。

確実に合格するために選んだ学科でプロダクトデザインに出会う

大学受験時はやりたいことが分からなかったため、とりあえず周りの友人たちと同じ千葉大学の教育学部を受験することにしました。学科選択では、勉強が好きなわけではないし、実技の方が得意だったので、家庭科の先生になろうと決めました。部活の先輩が体育科にいたので最初は体育科を目指そうと思いましたが、泳げなかったので体育は諦め、じゃあ家庭科にでもするか、と(笑)

家庭科=栄養学科だと思っていたので、私立は栄養学科ばかりを受験しました。けれど、1番最後の滑り止めの大学の願書提出前日に、ここは確実に合格しなければと思い、栄養学科より偏差値が低い隣に記載されていた学科に急遽変更。結局、そこしか受かりませんでした(笑)

そうして入学した大学では、建築、プロダクトデザイン、服飾の選択コースがあり、自分で何がしたいか分からないなりに1年生で建築コースを選択、2年生からはプロダクトデザインコースで学びました。建築は興味はあるものの作るものが大きすぎて自分には分からず、途中で転向したのです(笑)転向後にプロダクトの先生から学外のコンペに誘ってもらい、課題以外の作品を制作するようになりました。

AXIS(アクシス)の雑誌にも掲載してもらったり、ちょっと良い成績も収めたので、その頃からやっとものづくりを楽しいと感じ始めました。それでも就職活動をする時点で、自分が何をしたいのか分かりませんでした。ものづくりは好きだけれど、デザイナーには向いていないと感じていたのです。そこで、とりあえず「ものづくり」に携われる会社という理由で選んだのが、東京にある建築金物メーカーでした。

HIGASHIYA、SIMPLICITYとの出会い

1年目は現場で働き、鍵の組立作業。その後設計の補佐をしたり、図面を書いたり。トヨタ生産方式や工場の業務改善などを勉強して、生産士一級も取得しました。その会社はデザインを学んだ人を採用したいという方針があったこともあり、私はインハウスデザイナーのようなポジションで、広告やパンフレット制作、社内では初めて取り組むブランディングや品質保証などの業務もさせていただきました。

そんなある日、久しぶりに会う友人のために手土産を用意しようと新宿伊勢丹に入ると、たまたまHIGASHIYAという和菓子屋が期間限定で出店していました。そのパッケージのあまりの美しさに感動してしまい、全種類の商品を買ってしまったくらいです。そしてなんと、その手土産を渡した友人のルームメイトがHIGASHIYAのスタッフだというのが判明したのです。その場でどこに実店舗があるのかを教えてもらいました。それ以降、手土産といえば必ずHIGASHIYAに買いに行く程の大ファンになりました。

ちょうど社会人3年目に転職を考えていた頃で、転職するならHIGASHIYAしかないと。調べると大元はSIMPLICITYというデザイン会社でそこにはインテリア、器、食、日本、シンプルなデザイン、など、私の好きなキーワードが揃っていて、より想いが強くなり使命感に近い感覚を持って入社を希望しました。

毎日、感動しながら出勤

SIMPLICITYではデザインの仕事をしたかったのですが、自信もスキルもなくて、後ろ盾として何かしらの知識を身につける必要があるという考えでいました。その結果、営業や接客は不向きであるにもかかわらず、まずはお客様の層を知ろうと思い、店舗からやらせてくださいと自ら申し出てHIGASHIYAの所属になりました。案の定、店舗では緊張しすぎて暖簾の後ろにすぐ隠れていたのですが(笑)

それでも、前職の生産管理などの経験やスキルが役に立ち、2年目から店長になっていました。扱っている商品全てが素晴らしく、心から好きだと思えていたので、自分にできることはなんでもやろうという気持ちで、接客だけでなく、在庫管理や社内のルールを統一したり、物流システムを整えたりしたことが結果的につながりました。

また、HIGASHIYAの接客は少し特殊です。おそらく「包む」といういわゆる「作業工程」が他店と比べて多いと思います。販売・接客をやりたいだけではモチベーションの維持は難しいかもしれません。私は手を動かすのが好きだったので、最初からすんなり受け入れたというのもありますが、それらの行為にはちゃんと理由があるのです。

「包む」には慎む気持ちが、そして包まれ結ばれたものを「解く」には仏が宿っている。包むから解くまでの所作や行為を含めて、パッケージデザインという考えです。商品を包む作業を分解して単なる「一工程」とカウントし、簡略化して効率を上げる、というのではなく「大事なものを解かれるまで守り、お渡しをする」、その一端を私たちが担っているという想いからです。

日本の伝統文化を現代に進化させて継承することが会社のコンセプトというのもあり、和菓子を通じてそういった日本の歴史や文化、精神性に触れることもできました。また、日本人としての誇りも持つようになりました。会社で作られているものは歴史や解釈を現代へ昇華し、シンプルに収められている。すべてが美しく、それを届けられることに心底幸せを感じていました。毎日、感動しながら出勤していましたね。

書を再開する

そんな中、書で会社に貢献できる機会がたびたびありました。会社の人は普段から私の書類を見ていることもあり、社内では「字が上手い人」として認識してもらえていました。おかげで、店の内外に飾る旗や暖簾に、「あま酒」や「饅頭」という文字を書く役を任せていただきました。

お客様とのエピソードもあります。当時の店の都合上、熨斗の表書きの名入依頼はお断りしていましたが、理不尽にお怒りになるお客様がいました。仕方なく、特別にその場で手書きで書いたところ「いいわよ、これで。」と。非常に投げやりな言い方でしたが、有無を言わせない字で怒りを鎮めることができました。さらに書を本格的に始めるきっかけとなったのも、HIGASHIYAでの仕事でした。

地域によって、出産の内祝いのお返しに命名札というものを貼ってお返しするという風習があります。HIGASHIYAにも命名札の取扱いはないかという問い合わせがあり、商品化のための企画が始まりました。当初は筆耕さんにお願いしようと考えていましたが、命名札は書く内容の地域差が大きく発注が難しいこともあり、まずは試しに内製しながら情報収集することになりました。その時に命名札を書く役割を担ったのが私でした。いずれ筆耕さんにお願いする予定だったのと、上手いと言えどお金をいただくからには基礎からやり直したいという思いもあり、このプロジェクトの筆耕さんとなる方が運営されている書道教室に通うことにしました。

通い始めて間もない頃、教室の先生が私が何時間も黙々と書き続けている姿を見て「あなた、尊いわね。本当に書くことが好きなのが分かるわ。」と言ってくれたのです。当時、社内ではけっこう上の立場にいて誰からも褒められることがなかった時期でもあり、その先生の言葉は余計に嬉しかったです。結局その命名札のプロジェクトはなくなってしまいましたし、翌週に別の小学生の生徒さんに全く同じ言葉をかけているのも見たのでズッコケましたが(笑)その言葉は純粋に嬉しく、書は楽しく続けられました(笑)

同じ頃、京都の花の先生を通じて知り合ったデザイナーの方に、お礼の手紙を筆で書いたことがありました。すると、文字にものすごく感動してくれたんです。「次に控えている仕事のグラフィックにあなたの文字を使いたい」と。そして、完成したグラフィックの画像をSNSに投稿したところ、それを見た別のデザイナーさんからも依頼をいただきました。どちらも素晴らしいお仕事で依頼は嬉しかったですし、お二人ともHIGASHIYAの常連のお客様だったので、接客をしていた甲斐がここにもあった、と思いました。

退職、福岡、そして京都へ

HIGASHIYAではあっという間に7年が経ったのですが、仕事量がかなり増え、体調を崩して退職しました。

店舗責任者、MD、商品企画、ブランディング等に従事しましたが、特に商品企画は夏におせち、冬に夏の水羊羹の開発をしなければならないなど、自分の体の時間軸が少しずつずれていったこともストレスの一つでした。人に季節の移ろいなど豊かさを売っておきながら、自分自身は脳みそでどうにか辻褄を合わせるような、本来の豊かさから離れていった気がします。

また、退職する数年前に、父方の祖母が亡くなりました。祖母は花と書道の師範だったのですが、何も教わらないまま亡くしてしまいました。そして退職する少し前に、福岡に住む母方の祖母も体調を崩していました。彼女はお茶の師範だったので、母方の祖母には習っておこうと意識したことも退職の理由の一つです。またそれが福岡へ行くきっかけとなります。

退職後、海外で数日過ごしたあと、福岡で2ヶ月滞在しました。その滞在中毎日、祖母にお茶の稽古をしてもらいました。

毎朝ランニング後に庭の掃除、そして庭に生えている花を摘み、生けるところから始める。そんな毎日でした。この期間中に京都祇園のとある甘味処の店長から一緒に働かないかと声をかけていただきました。HIGASHIYA時代にほぼ毎月通っていた甘味とお茶を扱う店です。同時に別ルートからその店のオーナーや関係者からもお誘いいただき、「これは何かの縁だ」と思い、そこで働くことを決めました。
実はHIGASHIYAの退職当時、2年後にまた戻ろうと思っていたのです。本当に好きな会社だったので。ただ、戻るにはパワーアップしておく必要があると思っていました。そこで伝統文化=京都という認識でしたし、お茶を学べば東京に戻っても生かせるに違いない、と。最終的に祇園のお店のご縁が後押しとなって、京都へ移住することにしました。

そもそも京都との出会いは、HIGASHIYAで勤め始めて4、5年経った頃です。取引先が京都に多かったことや、商品企画のための情報収集、個人的にも京都が好きでほぼ毎月訪れていました。京都以外でもお菓子をたくさん見てきましたが、自分の中で、京都は別格でした。

滋味深くて、シンプルで、心の込め方というか削ぎ落とし方がすごい。老舗の京都のお菓子は「おいしいっ!」というサプライズの美味しさではなく、「はぁ~、おいし…」と沁みる美味しさなんです。心身ともに喜ぶ感覚。東京と京都を比べて、美味しさのジャンルが違うのでは、と感じました。もちろん歴史も違う。京都の老舗のお菓子屋さんが長く続く理由が分かりました。

それに、接客方法も違います。東京だと、お客様の要望があればそれに全力で応えるために会議まで開いたりしていましたが、京都は「うち、このスタイルやし」という、お店もお客様を選ぶ姿勢。だからこそ、自分たちが続けられるものを大切にしていけるのだと納得しました。

何かやった方がいいよ

京都に移住してちょうど1年目の終わりごろ、2019年の春頃に、京都に友だちがいないと嘆いていたら、東京の友人が私と同じ時期に京都に移住した人を紹介するという名目で食事会を開いてくれました。その中に、今も展示でずっとお世話になっているtonoto武秀律さんがいらっしゃいました。その食事会でたまたま武さんに私がSNSに載せていた、HIGASHIYAで書いた「あま酒」や「饅頭」の文字を見て「何かやった方がいいよ」と。そして、その場で2020年に個展をすることが決定しました。

ところが、2019年のうちにtonotoが1年間のアーカイブ展をやることになり、そこで次回の展覧会作品も数点展示したいということで、私は急遽作品を1つ作ることになりました。武さんにアドバイスをいただきながらわけも分らず制作したのですが、わけが分らないなりの純粋なパワーのある作品が完成。ふと想い立って、SIMPLICITYの社長でありHIGASHIYAの社長でもある緒方慎一郎氏に、近況報告として京都での活動の様子とその作品の写真をメールで送ったところ、「その作品は私が買います。その代わり自信を持って頑張ってください。でも、辛くなったらいつでも戻ってきてくれていいですから。」と言ってくださったんです。とても嬉しくて涙が溢れました。自分の父よりも父のような言葉をくれました。今でもこの言葉に支えられています。

そうして作品が売れてしまったのでもう1つ作品を作ってほしいと依頼され、制作。作ってみると二つ目の作品も良かったので、いっそ2019年のうちに個展をしましょうという話になり、気づけば2019年の秋に開催していました。すると、ありがたいことに作品が全部売れてしまったんです。この時点ではすでに祇園の店を退職していたので、転職活動をしなければと思っていたのですが、これは作家として続けなければ作品を購入してくださった方々に失礼だと思いました。そしてこの時に作家として生きていこうと決意したのです。

作家として生きていくことは、両親だけでなく親族からも理解してもらえませんでしたが、緒方社長の言葉や武さんの「続けるべきだよ」という言葉もあり、支えとなって今に至っています。

むしろ自分には作家としての道しか残っていないように感じました。京都に友だちがいないと思っていたのに、祇園の店のお客様が聞きつけて個展に来てくださったり、初めての個展で作品を買ってくれたのは、ちょっとしたきっかけで出会った人。東京時代の知り合いも来てくれましたが、京都の人がほとんどでした。今まで出会った人たちにすごく助けられていると感じ、何か返さなければいけないと思いました。

プライドを捨てた方が人にも優しくできる

私の作品は、書と聞いて一般的に想像されるような作風ではないと思います。いわゆる「書道作品」は素晴らしい方がすでにたくさんいらっしゃるし、自分が今から挑んでも敵わない。それよりも、想像できうる書ではない、現代アートの枠に着地できるようなものを作りたい気持ちがあります。それはSIMPLICITYの日本の伝統文化を現代に進化させて継承させるというコンセプトに影響を受けているとも思います。

学生時代にデザインを勉強していたこともあり、もとから書を書としてだけでなく、書をデザインや工芸、書の枠を超えたところに落とし込めないかなどと考えていました。そこから徐々に考えは変化していて、今でも着地点は模索中ですが、目指すところは現代アートでありたいな、と。

というのも、文字は元は象形文字で、絵を簡略化したもの、抽象画であると言えると思います。それを整理してデザインし、完成したものが今使われている文字。ただ、その整理とデザインの過程で削ぎ落とされてしまったものがあるはずで、その削ぎ落とされてしまったものをもう一度拾い上げた線の集合体、文字ではあるけど抽象画として描きたいという想いを持っています。

作品で扱う言葉や題材は自分が見ていられるものでありたい。私は親からかなり厳しく育てられてきたので、今はもう「人の言うことを素直に聞く」心のタンクが満タンになってしまいました。なので美しい言葉ばかりの、お行儀の良い子になるための書は毎日眺めていられない。あくまで今の私は、ですが。

もっと本来の自分に近い毒っ気が滲み出ていて、本来隠したい部分を曝け出しているようなものを書きたいです。もしかしたら隠したいものを見せる方が本来は難しいのかもしれませんが、私の場合、プライドを捨てた方が人にも自分にも優しくできると気づきました。

元は真の負けず嫌いなので、心の中では絶対に負けたくないと瞬間的に熱を帯びるのを感じますが、その負けてたまるか感を顕わにしなくて済むほうが圧倒的に健康で安全で平和。そしてなにより開放的です。

なので、一旦帯びた熱の根源を見つけ出して、そうかこれが原因か、といってその核となる部分を題材にしたい。先出しじゃんけんのような作品が理想です。私の弱みはこれです、と。でもこれが一番人間らしくて好きな部分でもあります。でも学生時代や勤めていた頃はプライドを守ることに必死でしたけどね。

暮らしの中の喜びや発見

京都に来てからは、季節を感じながら暮らせることに静かな喜びを味わっています。たとえば、冬の0℃と春の0℃に違いがあるとか、庭掃除をするときに同じ0℃でも春の始まりは地中の奥から生き物が目を覚ましているのに気がつく。奥のほうからむくむくと目覚めようとしている瑞々しさを感じます。二十四節気の「啓蟄」(けいちつ)にあたる時期のことです。

また、「水無月」という和菓子は東京でも浸透してきましたが、まだまだ知らない人が多いです。しかし京都では、6月の定番のお菓子としてほぼ全ての和菓子屋に並びます。さらに店ごとに白が強い「外郎」か、透明度のある「葛」かの違いがある。

このように季節や和菓子についての知識は、東京でテスト問題のようにワードとして頭には入れていましたが、実体験としては軽薄だったと気づきました。京都に来てから日常でその答え合わせを一つ一つできています。また、お茶をしている方やそれにまつわる道具の職人の方など、出会う人からさらなる知識を得、伝統、文化との距離の近さを感じています。

作品制作に使用する道具などの揃えやすさ、相談できる職人さんの多さからも京都の伝統を感じます。紙は、紙司柿本さんにずっとお世話になっていて、スタッフの方の知識量が豊富でとても信頼しています。実験的なことをするときも、さまざまな提案をしてくださるので嬉しいです。さらに、表具屋さんがこれだけたくさんあるのはすごいですよね。

寺があればすぐ近くに表具屋がある。いつもは中島静好堂さんにお願いしていますが、すぐに職人さんに出会えるのも京都ならではだと思います。廃れるどころか、この間も職人さんが独立されたと聞きました。年末年始に限らずいつもお忙しそうで、京都の活気を感じます。

私の住んでいる近所には、かみ添の嘉戸さんや、kankakariというギャラリーの鈴木さんがいらっしゃいます。お茶の先生は、中山福太朗さん。みなさん素晴らしい方々です。センスがよく、知識も豊富で質問をすれば何かしらの回答が返ってくる。

金銭授受ではない、技術と知識の交換ができることが非常に豊かだと感じます。各々が美しいものを見出す回路を持っていて、その回路を見つけ出すコツも教えてくれます。私からは何も出てこないので技術と知識の交換といいながらほぼ吸い取っているだけなのですが(笑)

また、周囲に個人で商いをしている人がたくさんいるというのも安心感があります。私の家系は会社員か公務員なので今の働き方のお手本がいなくて、当初は不安でした。でも京都には仲間がたくさんいましたし、親が期待するレールから外れたことが自分にとって解放でもありました。

さらにご近所関係だと、STARDUSTの香那さんに俳句を詠む会に誘われたことをきっかけに訪れた厭離庵も大切な場所です。そこでは毎週月曜日に坐禅をしていると聞き、すぐに通い始めました。朝6時半からスタートで、自宅から片道40分かけて自転車で向かいます。坐禅中はほぼ寝てしまっているけれど、その道中が最高なんです。

季節とともに太陽の昇る場所が少しずつ変わることが分かったり、香りや音も違います。それらを存分に感じながら自転車で大きめの山道を越える。すごく気持ちがいいです。普段は一人で仕事をしているので自分を評価するのが難しいですが、この習慣は分かりやすく自分の頑張りを感じられるので、それも良いですね。

ちなみに、坐禅に参加している人の中で、能面打ちをしている方がいて、今は能面の打ち方を教えてもらっています。初めて社外のデザイナーの方からいただいた書の仕事は、能の台詞を速記で書くというものだったので、能には思い入れがあるのです。このように、伝統に繋がる出会いなどが散りばめられているところも京都のおもしろいところです。

海外での活動にも挑戦したい

京都には海外からも人がよく訪れていて、知り合いが私のアトリエに連れてきてくれます。彼らと話していると、海外で挑戦したい気持ちが高まってきました。

2023年に初めてヨーロッパを訪れたのですが、芸術リテラシーの高さが日本とは比べ物にならないと個人的に感じ、自分は1度ヨーロッパで、こてんぱんにされた方が良いと考えるようになりました。

今は順調に活動できていますが、このままでは5年後、10年後に続けるのは無理だろうと思っていて、どうせ淘汰されるなら1度海外を経験して強くなった方が、自分の生き方としてはいいのではと思っています。アーティスト・イン・レジデンスにも興味があり、応募してみたいです。それに向けて、京都で研鑽を積んでいきます。

プロフィール

1987年鹿児島県生まれ。千葉県育ち。昭和女子大学生活環境学科プロダクトデザインコース卒業。建築金物メーカーにて3年、株式会社SIMPLICITY/HIGASHIYAにて7年勤務したのち2018年京都へ移住。2019年より書家として活動を開始。

書を用いた作品を発表するほか、店舗や会社の屋号なども手がけている。

加山さんの京都へのたどり着き方