劇団四季『美女と野獣』で舞台セットの窓が開いた瞬間、自分の中の何かが開いた
中村彩乃|京都在住歴 10年
演劇を始めてから10年、そのキャリアの過渡期まっただ中で悩みながらも前進を続ける中村さん。野良からスタートした演劇人生だからこそ見えたもの、考えてきたこと、今はどこに目を向けているのか、たっぷりお話しいただきました。
取材場所は、学生時代から劇団「安住の地」旗揚げ後もよく利用しているという京都芸術センター。
取材:2025年7月
学校には行くけれど
私が育ったのは、大阪に出やすい奈良のベッドタウンでした。特に文化的なことは身近になくて、親が連れて行ってくれるのはエンターテインメント、アミューズメント的なところが多かったです。美術館へ行くのは学校の校外学習くらいで、演劇を気軽に観る環境ではありませんでした。
小学生のときにあった放課後活動のようなもので演劇部に入っていましたが特にフィットすることなく、習い事でサッカーをしていたのでそっちの活動がメインでした。そうして中学に入りますが、私がいま演劇を続けている原点はここにあると思うのでちょっと踏み込んでお話しします。
中学ではなにかと人と関係がうまくつくれず、いじめられっこでした。よくある、標的になっている子をフォローしていたら、見事に矛先が私に向いた、みたいな。
同じ頃、入部した女子卓球部でもうまくいかず。同学年に4人部員がいたんですが、私は少し卓球がうまかったみたいで先生からすごく期待されていました。それが気にさわったのだと思います。実際は超スパルタで指導されていたので、ちやほやされたとかいうことでもないんですけどね。でも、そんなことはおかまいなく3人からハブられていました。
そんな状態だったので、心身の健康を崩してしまって、学校には行くけど授業中はほぼ寝ているし、勉強もどんどんできなくなりました。そんな状況でも、部活の先生は「期待してるのに、お前はなんでそんなんやねん」と怒る。卓球も結果的に上達はしましたが楽しい思い出はなく、そんな感じで中学生活は終わりました。

舞台セットの窓が開いた瞬間
高校は比較的平和な学生生活を送れましたが、何にも興味をもてない状態で、学校の授業もとにかく寝ていました。起きていられなかったんです。一度、気がついたらお昼休みでみんなはお弁当を食べているみたいなことがあり、びっくりしました。いま振り返ると、過眠症のような、ストレスで眠くなっていたのではないかと思います。
そんなある日、父が同僚から劇団四季のチケットをもらってきました。うちの家族はミュージカルを観たことはなかったし、父も初めてなので、行ってみるか、という軽い感じで一緒に行くことになりました。私はミュージカルというジャンルがあることは知っていたけれど、ひねくれまくっていた時期だったのでまったく興味がなく、寝てやり過ごそうという気持ちでした。そんな状態で奈良から京都劇場へ向かいました。
そのときの演目は『美女と野獣』でした。最初は王子様が野獣になるシーン、それからベルの朝のシーンに入っていき、舞台セットの窓がバンッと開いて、みんなが「おはよう!」「おはよう!」と言うシーンからオープニングが始まります。その窓が開いた瞬間、自分の中の何かが開いたような感じがして。それまで一流の方の舞台に触れたこともなく、生の舞台をきちんと観たこともなかったので「途中で歌を歌うってどういうこと」と斜に構えていたことも忘れて「なんなんだ、この人たちは」と、ただ圧倒されてしまいました。
それから劇団四季にハマり、お小遣いを貯めて1人で部活終わりに観劇に行くようになりました。部活終わりのジャージ姿で最前列に座り、目を輝かせていましたね(笑)。サウンドトラックも聞きこみました。サントラを聞いているときは活力が湧いてきたんです。こうやって観劇にのめり込むうちに、人生がいい方向に動いていくような感じがありました。
その頃から劇団☆新感線を知り、高校1年生の秋口に梅田芸術劇場へ初めて彼らの公演を観に行きました。それが初めての、ミュージカルではなく俳優の語りで進んでいく舞台作品との出会いです。それにも圧倒され、商業の大きなサイズの演劇もどんどん観に行くようになりました。劇団☆新感線のとある作品がすごく好きで、DVDを購入してウォークマンに取り込み、自分の部屋で完コピを試みたりしました。振り返ってみると、そんなことをしていたくらいなので、ちょっとは「やってみたい」という気持ちがあったのだと思います。
ただ、親に役者になるなんて言ったら驚かれるだろうというのが想像できてしまって、言い出せませんでした。高校3年生の進路選択のときも、大阪芸術大学など、興味があって調べていましたが、自分とは違う世界の人が行くようなところなんだろうと感じ、受けることすらしませんでした。両親が教員だったこと、そして漠然と「いじめられる子を減らしたいな」という思いもあり、教員免許を取得できる大学に行こう、という流れで京都女子大学の教育学部に進学しました。

小規模の舞台「私にもできそう」
大学生の最初の頃は、特にやりたいこともなく、遊びに行くことも知らなかったので、片道に2時間かかる通学も苦に感じず過ごしていました。軽音サークルに入り、バイトをして、このまま教員免許を取って卒業するんだろうなとぼんやり考えていました。ところが、大学1回生の秋口、学園祭での演劇サークルの公演に衝撃を受け、私の人生は大きく方向を変えることになりました。
それまでは劇団四季、劇団☆新感線など大きな舞台しか見たことのなかった私はまず、その規模の小ささに驚きました。客席は30~40人程度。そのときの演目がおもしろく「これなら私もできそう」と思い、軽音サークルを辞めて、演劇サークルに入りました。のめり込みましたね(笑)。
演劇にのめり込んだ大きな理由は、中学でいじめられていたときに考えていたことと、演技をしたり演劇をつくったりする中で考えないといけないことが、自分の中で繋がったからだと思います。
演劇をつくるとき、登場人物の台詞の背景や思いについて考えを巡らせます。人はどのような動機があればこのアクションをするのか、もしかしたら相手役にはこういう背景があったのかもしれない、などと想像をしたりします。また、相手役の俳優さんが、なぜその振る舞いになるのかを考えることもありました。稽古中に話してみることで、その俳優の背景や考え方を知り、それが演技に結びついていると理解していくうちに、このプロセスが自分がいじめられていたときに考えていたことと似ていると感じたんです。
いじめられていたときは、「なんでこの人は自分のことをいじめるんだろう」「なんで私がいじめられないといけないんだろう」と、相手の行動についてかなり考えていました。
その後、演劇を通して当時の出来事を振り返る中で、いじめてくる側の同じクラスの子は親が大変な人らしい、と聞いていたことを思い出したり、スパルタだった卓球部の顧問の先生もお母さんが超スパルタだったと聞いたことがあったなと思い返したりしました。その子や先生もすごく追い詰められていたのかもしれない。親から受けた苦しさを発散させるために私に向けられていたのかもしれな。そう考えることもできました。
演劇で相手のことを想像するという行為を重ねていくことで、結果的に自分自身をケアしていたのだと思います。そうして、人と付き合うことが楽になる瞬間がありました。

晴れて京都暮らしがスタート
もっと演劇の可能性を知りたくなった私は、同年代の女性しかいない大学のサークルでは物足りなくなり、3回生でサークルを辞めて外部のオーディションを受けに行きました。人生で初めて受けたオーディションで採ってもらい、そこからいわゆる京都の小劇場界隈に入っていきました。現在所属している劇団飛び道具で座長をされている藤原大介さんに出会ったのもその公演です。
これと時を同じくして、実家を出て京都に住みたいという気持ちが芽生えるようになります。というのも、学外の劇団は京都芸術センターで稽古することが多く、夜10時まで稽古できるはずのところ、私は門限のために9時半に帰らせてもらい、四条烏丸から京阪の祇園四条駅まで必死に走る、みたいな生活を送る日々になりました。最後まで稽古に参加したい気持ちから、京都に住むことを考え始めましたが、親に一人暮らしをなかなか賛成してもらえない。そんな折、大学の友人がちょうどルームシェアをしていて、1人がその部屋を出るかもしれないということで、次のシェアメイトとしてお誘いをしてくれたんです。もう願ったり叶ったりで「行く!!!」と即答しました。1人暮らしには反対気味だった親も、2人暮らしなら、ということで許可してくれて、晴れて京都暮らしが始まりました。
引っ越しを終えたその日も稽古があったのですが、最後まで参加できただけでなく、初めて飲み会に参加しました。よほどうれしかったのか、今でもその飲み会のことはよく覚えています。
すぐに安い自転車を買って移動も自由になりました。たとえば、今までは京都大学の西部講堂へ公演を観に行くときはバスで行っていたけれど、自転車で行けるようになる。家からまあまあ距離はあるんですが、東大路通りをチャリで走っていると「うわーーーーっ!!」という感動が体の底からこみ上げてきて、ニヤニヤしていましたね(笑)。

飲み会でメモを取り、とにかくたくさんの公演を観る
こうして3回生から一気に外へ出ていくことになりました。アトリエ劇研、AI・HALL、ウイングフィールドなど大学外で関西の小劇場に立たせてもらい、いい大人に恵まれて楽しくお酒を飲みながら真面目な話をしてたくさんのことを教えてもらい、どんどん世界が広がっていきました。さらに私は飲み会で出てきたワードを、めちゃくちゃメモしていました(笑)。演劇をどこかで学んだことがあるわけではなく、ずっと野良でやってきたので圧倒的に情報量が少なく必死だったんです。飲み会や集まりに誰が参加していたのか、話の中出てくる人、場所、企画、作品名、観に行った公演にどの団体の誰が出ていたのか、など、まずはメモ。そうやってメモを取っておくと頭にも残りやすいので、初めて会った人でも「○○さんからお話を聞いたことがあります」と言うことができて、関係を築きやすくなったり。そういう連鎖で演劇関係の人と繋がっていくことができました。
そのノートにはいつ、どこで、どんな公演があるのか予定を書き出し、当日のお手伝いに行くと無料で観ることができる機会もあったので、そういったものを駆使しながらハシゴ観劇もたくさんしました。それを教育実習の合間にも詰め込み…ワンダフルスケジュールでした(笑)。観劇したものの感想、そのとき何を考えているのかといったことも書き残すようにしていたので、このノートにすごく助けられてきたと思います。
そうこうしているうちに大学卒業後の進路を考えないといけない時期にさしかかりました。教員免許も無事に取得できそうでしたが、当時一緒に活動させていただいていた劇団の方から「将来のことで悩んでいるなら、とにかくいろんな先輩に聞けばいいよ」と言われ、たくさんの人生の先輩にお話を聞かせていただきました。当時私がよく関わらせていただいていたのは、劇団飛び道具、下鴨車窓、エイチエムピー・シアターカンパニーのみなさんで、当時30代後半から40代の方が多く、ライフステージが安定している方々のサンプルにたくさん触れることができました。最終的には「チケット代3,000円の重みを知るために、一度社会に出るのものありだよな」と思い、就職することを決めました。

自分の担保は自分で取る
内定は夏頃にいただき、大学生でいられる残りの期間は、卒業式前日まで本番に出る生活を続けました。その卒業前に初めて劇団飛び道具の公演に出演させていただき稽古期間の2月、3月はほぼ毎日のように座組のみなさんと顔を合わせるのでよくよくお話を聞かせてもらいました。
その中でも強く影響を受けたのが藤原大介さんです。この頃はよく悩んでいて、就職するけどどうやって演劇を続けていくか、京都に居続けるのか、東京に拠点を移して活動するのはどうなんだろうということを相談していました。そのときに藤原さんに言われた、非常に印象に残っていることがあります。
「東京は分母も多くて、競争が激しいから技術のレベルが高いものも多く、刺激にはなると思うけど、自分がなぜ演劇をやるのかという担保を自分で取れるようにね。この人に褒められたいからやる、この劇場でやる、というのを目標にしてもいいけれど、それが叶ったらどうなのか?それが叶わなかったらダメなのか?他のものをものさしにしてしまうと、自分の担保を自分で取れなくなってしまう。それが一番苦しいし、しんどい辞め方をして関西に帰ってきた人も知っている。東京へ行くにしても、行かないにしても、自分の活動の担保は、自分で取れるようにしておくのがいいと思う。」
自分の担保を自分で取るというのは「○○ができた時にいいパフォーマンスだった」「○○をもっと良くしていきたい」と考えるとき、自分なりの基準があるということだと思っています。そうすれば誰かに寄りかかりすぎたり責めたりせずに済む。自分が頑張れば自分の手柄になるし、そうやって考えられるのが健全ではないか。そういう対話を経て、一旦関西にいようと心を決めることができました。そして劇団員飛び道具にも加入しました。

20歳年上の先輩たちは、おそらく自分よりも20年早くこの世を去る
ということで2016年の4月から、人と関わる仕事で楽しそうだという理由でホテルに入社をしました。読者の中には、演劇を続けたいと思いながら土日がメインの仕事を選んだの?と疑問に思う方もいるかもしれません。当時の私としては、年に2回くらいだったら本番のために土日に休んでも大丈夫だろうと踏んでいたのですが、まさかのブライダル課に配属されてしまいました。土日出勤が必須。これは誤算でした(笑)。
でも、すごく楽しい仕事ではあったんです。披露宴会場ではあんなに華やかなのに、裏では料理長がめっちゃキレているとか、宴席中にまあまあ大変なハプニングが起きたりとか。ちょっとしたお芝居のようだなと(笑)。
ただ、入社して3ヶ月が経った頃に、京都の俳優の先輩が重い病気で倒れられるということがありました。その話題の流れで劇団員飛び道具の方々にも「先輩方も健康に気をつけてください」と言ったところ、「俺らは先に死ぬ、お前より少なくともたぶん20年は先に死ぬ」とあっさり言われ、そこで初めて当たり前のその可能性に気づかされました。それまで、上の世代の作品に出させていただくことが多かったので、これがきっかけとなり、同世代との横の繋がりを作らねばという意識が芽生えたんです。さらに、同時期にアトリエ劇研が2017年に閉館することが発表されました。当時すでに何度か劇研の舞台に立たせてもらっていてホームのように感じ始めていたこともあり、同世代で何かをつくるなら、劇研での旗揚げは外せないと強く思いました。
それから岡本昌也さんと劇団「安住の地」を結成しました。劇研に行って当時芸術監督をされていたあごうさとしさんにも話をして、劇場代を少し割り引いていただく後押しをしていただきながら、1年かけて旗揚げ公演の準備を行いました。同時にホテルでの仕事をどう継続するのかという問題にも非常に悩みました。ブライダル課からの異動もさりげなく相談しましたが、気に入っていただけていたのか、仕事内容自体も自分に合っていたこともあり受け流されてしまったんです。一緒に働いている人たちも良い人たちばかり。でも「どうやって演劇を続けていくか」を常に考えている自分を無視できなくなっていました。ブライダルのお仕事も中途半端にできるものではありません。どちらかを選ばないといけない、そう思いました。
演劇をやっていることは会社の人たちには言っていませんでした。稽古のために早く帰っていると思われたくなかったからです。けれど、入社した年の夏に肺炎で寝込んだことがあります。勤務後は旗揚げのための打ち合わせをして、休みの日には演劇の稽古に行って。体を休められていなかったので当然ですよね。当時は休みなんて無くても自分の体はもつだろうと思っていたんですが、ダメでしたね。このまま両方を続けるのは無理だと思いました。演劇を一度離れ、会社勤めを続けてもまた演劇に戻ってこれると言う人は多いです。今ならその言葉も理解できるし同意しますが、当時は演劇に集中したい気持ちを抑えられませんでした。
そうして入社3、4ヶ月目頃には退職を心に決めました。なかなか言い出せないまま婚礼の担当をもつことになってしまい、ようやく退職できたのが社会人になって1年過ぎた頃、2017年の6月頃でした。それから、フリーランスで演劇をやる人生が始まります。

拘束時間が長い演劇の特性を踏まえて仕事を選ぶ
いざ退職したものの、どのように生計をたてればよいだろうかと悩みました。ここでまた、劇団飛び道具の藤原さんの教えが効いてきます。
演劇、特に俳優は非常に拘束時間が長い仕事なので、時給でお金をいただくお仕事とはちょっと相性が悪い。だから時間でなく技術を売る方が比較的、演劇を主軸にした生活が回しやすい。
藤原さんがカメラをやっていたと言うので、じゃあ私も、ということでカメラマンとして生計を立てることになりました。最初はアシスタントから始まり、徐々にメインで現場に入ることやレタッチなども任されるようになりました。撮影は午前中で終わり、納品は少し先の日程なので、午後からは稽古に行ける。また、教育に興味があることもあり、大学生の頃から子ども向けの演劇ワークショップのアシスタントに呼んでいただいていました。その縁が生きていて、私がフリーランスになったという噂を聞きつけた方から、再びアシスタントにも呼んでいただけるようになりました。そうして1、2年ほどの収入の内訳はカメラ9割、演劇1割で生活を続けることができました。
演劇の活動は、安住の地の旗揚げ公演も2017年の7月に無事に終え、翌年度の若手アーティストを支援するKIPPUというプログラムに採択いただいたことをきっかけに、金沢21世紀美術館や東京などでの上演やコンペにも採択いただきました。
また、幸いなことに同世代に演劇を続けている人たちが多く、その活気も活動の支えになりました。特に京都学生演劇祭での出会いは大きかったです。今も交流が続く人たちに出会うことができ非常に良い機会でした。学生演劇祭をきっかけにほかの劇団を知って、観に行くこともよくありました。終演後にあいさつをして、一緒にごはんに行くようになったり。演劇を続けていると、別の場所でもまた顔を合わせる機会があります。そうした積み重ねのうちに、ルサンチカの河井朗さん、劇団不労社の西田悠哉さん、幻灯劇場の藤井颯太郎さんなど同世代の繋がりも広がっていったように思います。

自費で滞在したロンドンで
ロームシアター京都でのKIPPUの公演が終わったあと、海外の演劇を観てみたいということで、劇団員の岡本さんと自費でイギリスとドイツへそれぞれ3週間ほど滞在しました。一人芝居をつくったのですが、お金もないので稽古は公園で。散歩中の細い犬によくからまれました。チラシも手書きで、お客さんは10人ほどと大変少なかったですが、貸してくださったスペースの従業員の方が観て、良かったと泣いてくださったことが深く印象に残っています。「ひとりに何か届く」という重みと喜びを肌で実感しました。
この海外での経験、特にロンドンではけっこう打ちのめされましたね。いろいろな公演を観ましたが、言語の壁があるにも関わらず「この人、本当にすごいな」と思う俳優さんがいて、そのすごさって何だろうと考えたり、「はい、私はやります。拍手ください」といった感じで誇りをもって舞台に立っている俳優の姿が清々しくて。当時、ほとんど演劇では食えていない中で自分は何をもってパフォーマー、アクターと言えるのだろうと自問しました。
帰国後は、制作した一人芝居『異郷を羽織る – Drape the Strange land –』をリクリエーションし、その後何度も上演するレパートリー作品になっていきます。そしてこの頃、コロナ禍が始まりました。それまで、日中はカメラの仕事やアルバイト、夜は稽古、帰って劇団の仕事と脇目も振らずに取り組んできましたが、アウトプットばかりでインプットが何も無い!!!!!という状況から、ようやくこの辺りで強制的に立ち止まらざるをえない環境になりました。

コロナで立ち止まる
このことが、結果的に大きな転機となります。コロナ流行初期はこれまでの目まぐるしい生活が薄まったような、ぼんやりとした生活を送っていたのですが、運動不足になりまして。なんでもいいので体を動かそうと始めたのがキックボクシング。同じ場所で開講していたバレエにも、全く興味はないけれど、なんとなくお試しで参加してみたら、めちゃくちゃおもしろかった。
それまで私は自分の身体に無頓着でした。演劇も野良でやってきたので、すべて自分の感覚だけを頼りにやってきたのですが、このバレエの先生に出会って「身体ってこんなにロジカルにひも解けるのか」と驚きました。自分自身の体づくりができていないことにも気づき、今でも月に3、4回程度ですが続けています。
もう一つの大きな出会いは日本初の公立の劇団、劇団SPACの市民劇『忠臣蔵2021』に参加するために静岡に滞在したことです。コロナ禍で劇団SPACのみなさんが各々、自宅で鍛錬をするという映像をZOOMで配信していました。ヤバい人たちがいる…!と思いましたね。恥ずかしながら、それをきっかけにSPACの存在を知りました。それからSPACが市民劇の参加者を募集している情報を見つけ、静岡市民でもないのに応募。採択いただいたので、勢いで静岡へ向かいました。

東京でなくても素晴らしい俳優はいる
静岡では、尊敬する俳優さんと多く出会うことになりました。京都では演劇の方法論など俳優が喧々諤々とする場面にあまり立ち会ったことはなかったのですが、静岡では俳優同士が「あの人はこういう出自で、こういうことを勉強してきたから、演技はいいけど、基本的に自分とは合わない」などシビアな目線をもっていて、明確な思想のもと演劇に取り組んでいる方が多くいました。これは私にとって初めての経験でした。自分の演技の哲学やルーツ、演技法、思想など確固たるものをもっている人、だからこの人とは合わないと明確に言語化できる人。一度に、こんなに大勢のそういう俳優に出会ったのは初めてでした。
同時に、今まで自分がいかに何も知らずに野良でやってきたのかを突きつけられ、かなり落ち込みました。さらに、関西に残るのか、東京に出た方がいいのかと悩んでいた私の中に静岡という新しい土地や選択肢が生まれたことも衝撃的でした。首都圏以外にも、こんなにも素晴らしい俳優がいる。それを知ることができて良かったです。
一方で、静岡の人たちが京都ほど演劇を観ることに慣れているわけではないからこそ、厳しい状況にあると聞きました。どんなに手の込んだ上演をしても、京都の人だったら安いと感じそうなチケット代が、静岡の人にとったら「映画より高い」と受け止められてしまいます。だからこそ難しい演目をするときは、お客様に届きやすいように上演前の解説を丁寧に行うなどの工夫を凝らしていることも非常に刺激的でした。
京都の良いところでもありますが、「わかるひとがわかればいい」という雰囲気があるように思います。安定した客層がついているからこそ、もてる姿勢ですね。だからこそ、静岡のそうした実情を目の当たりにして、自分は今まで誰に開いているつもりだったのだろう、何のために演劇をしているのだろうと考え直すきっかけになりました。京都の恵まれた環境を、それまで何の疑いもなく受け取ってきたわけですが、京都芸術センターのように無料で稽古ができる場所があること、劇場の多さ、町がぎゅっとしているからコミュニティが比較的近いこと、それらを改めて認識したときに、その心地よさの中で自分が閉じてしまっていないだろうかと。

本当にまだ演劇を続けるのか?
静岡での滞在を機に、外を見に行こうという気持ちが芽生え、第七劇場のオーディションを受けて採ってもらい、三重県で2ヶ月弱ほど滞在制作をしたり、気になっていた長野県上田市の犀の角、鳥取県の鳥の劇場へ勉強会に行くなどしました。2023年以降は年に1回1~2ヶ月程度、京都を拠点にしながら外で滞在や公演をすることも増えました。また、こうして自分が勉強しよう、インプットしようという姿勢がつながったのか、以前は収入の9割がカメラの仕事だったのが、ようやく今年度初めて演劇関連の仕事だけで生活できるようになりました。年齢も関係していると思います。学校で演劇部のコーチをさせていただいたり、演劇のワークショップをメインで任せていただけることが増えました。少しずつ上の世代からバトンを受け取っているような感じです。
昨年から京都舞台芸術協会の理事にも就任し、肩書ではあるんですが、ちょっとは親に安心してもらえただろうと思っています。今、私は31歳ですが、本当にまだ続けるのか?というタイミングになりました。もう引き返せないなあ、という感じです。まだまだ知りたいこともたくさんあります。

どう続けていくか
劇団、同世代の繋がり、俳優個人としての活動
引き返せない、だからこそどう続けていくか、どこで続けていくかをまた考えています。関東の選択肢は無いだろうなと思います。私は競争社会に飲まれて自分を見失うタイプだと思うので。マイペースな活動をしていても、自分が自分を責めずに居られるところにいたい。ほかの都市を見ることも続けていこうと思います。でもやっぱり京都に恩義を感じている。育ててもらったと感じています。こんなに恵まれているからこそ、演劇の教育を受けていない野良の私でも勉強できる場所がたくさんありました。
先輩方に恩返しさせてくださいと話したことがあります。すると「いや、違う、下の世代に渡すねんで」と言われました。その機会を模索する中で、西陽〈ニシビ〉というグループを関西の20代後半から30代前半の演劇関係者で始めました。アトリエ劇研を含め京都の劇場がどんどん無くなって、世代を超えてつながることができた場所がなくなり、私たち若者世代が情報交換ができる場所を失ってどう生き延びたらいいのか困っていたことも背景にあります。そしてコロナがとどめを刺した。この世代が横の繋がりをしっかり作らないと、私たちより若い世代が上の世代と繋がりたいと思ったとき、その間にいる私たちがふわふわしていたら繋ぎ役にもなれない。何か場をつくれば、世代ごとの比較や相互の刺激も生まれるかもしれません。そんな気持ちを抱きながら、今は関西で演劇シーンをどう盛り上げられるかということをみんなで考えています。
個人的には、海外にも行きたいと考えています。
大学で演劇や演技を学んでいないので、これまで自分の直観を頼りにしてきました。それが今の私の軸を形成していると思います。でもそれは何とも言えないというか、自分で担保を取るけれど、その自分がまだまだ俳優という仕事に対して迷子。一度体系化された知識に触れ、それをもとに自分のものさしで測りなおす必要性を感じています。最近いろいろ勉強を進めていますが、日本はまだまだ演技に対する方法論が体系化されていないと思います。もう少し演技のことを学びたいと思ったとき、その入口として海外で学ぶのが良いのではと考えるようになりました。
海外で学びたいもう一つの理由は、イギリスやドイツに行ったときに言葉が通じず、自分の肌感覚で危険を察知したり、相手の話すことをなんとなく理解したり伝えようとする姿勢が大事になった経験が背景にあります。それまでのコミュニケーションが言葉に頼っていたことに気がつきました。演劇のなかでも演出やアートマネージャーなどのセクションよりも、俳優は肉体をより使うセクションだからこそ、母語で取り入れた知識で相手やその場に向き合うのではなく、その土地の風土だから生まれる気質、特徴にも目を向けて、肉体がないと体得できないことを重視したいと思っています。
たとえば鳥取に滞在していたとき、夜は町が真っ暗でヤモリが這う音も聞こえました。そこから大阪に帰ってきたら、人の声やいろいろ流れているものがうるさくて耳が痛くなったことがあります。そのとき、田舎に住む俳優はきっと耳が研ぎ澄まされているだろうなと考えたんです。羨ましいと思った。
どこの国かはまだ決められていませんが、自分が慣れ親しんだ文化や土地とは全然違う場所に身を置くことが今の私に必要だと感じています。劇団としての新しい活動も大事にしつつ、個人としては俳優の役割、俳優としてできることをもっと突き詰めたいです。

生き物として、良い生き物になれそう
演劇や俳優という仕事に向き合う中で、追究している問いがあります。三重県で出会ったすごく良い俳優さんの師匠の言葉を教えてもらったことがありました。それは「生活と演劇がシームレスになればいい」という言葉です。とても印象に残っていて、まだ自分の言葉で説明するのが難しいですが、どこからどこまでが演劇で、どこから生活になるのか、を問われているような。私も、劇場でなければ演劇が起こらない、とは思っていないんです。劇場ではない場所でも演劇は起こりえる。でもそれがどういうことなのか、まだなかなか説明できない。
私の原点にある、「いじめる人って、なんでいじめるんだろう」と考えることと「俳優が演技のために考えていること」は似ていると思っています。私にとってこれは、人と仲良くなる方法の一つです。それを考えると生き物として、良い生き物になれそうというか。自分が10代だったときにこの考え方を知っていたら、もっと楽に生きられたのにな、と思うんです。だから演劇のワークショップで行った保育園や小学校、中学校の子どもたちが「なんか大きな声を出す変な人が、《見えないけど想像してみるんだよ》って言ってたな」と私の言葉を覚えてくれていたら、いじめはなくなるんじゃないかという期待も根源にあります。
今この空間には、私とインタビューをしている八木さんと、カメラマンさんと京都市職員さんがいらっしゃいますよね。このとき、たとえカメラマンさんがレンズをのぞき込んでいたとしても一緒の空間にいるのだから無視して話すのではなく、カメラマンさんにも私は視線を配りたい。聞いている方がそろそろ眠くなってくる頃かな?と思うと、声を大きくして大げさなリアクションを取り入れてみる。こういうことを考えたり、やってみることは、生きやすくなるヒントになるのではと考えています。もしかしたら生きにくくなることにもなるかもしれませんが…(笑)。そんなことをじめじめ考え続けたり、実験して発表して、ということを京都はしやすいと思います。
京都の良いところといえば、伝統芸能にアクセスしやすいところも挙げられます。最近は同志社大学の近くにある河村能舞台で謡と仕舞を習い始めました。鳥取の滞在稽古でのどをつぶしてしまったことがきっかけです。何か発声に関する習い事をはじめてみようと思いました。ではなぜ能か。イギリスやドイツに行ってさまざまな違いを痛感したり、日本の演劇史を調べる中で、私自身が日本の歴史の延長に生きているということや、現代日本の社会で生きてきた身体を持ち合わせていることからは、逃れられないという感覚が強くあります。逃れられないなら向き合ってみたい。だからこそ、その身体性を理解するには伝統芸能をたどることにヒントがあるのではと考えました。ボイストレーニングなど直接発声を勉強することも考えましたが、体験を経て、能がフィットしました。なんだったんだろう。
能を習いたいと思えばすぐに場所や機会を見つけられるのも京都ならではですよね。

一流って、こういうことか
あと、創作の面でひそかに影響を受けたのが2022年まで京都を主な拠点として活動されていた、きたまりさんです。2022年にきたさんが京都芸術センターで発表された『棲家』という作品を観て、かなり落ち込んだんです。太田省吾さんという劇作家の作品を題材にピアノと馬頭琴を用いたダンス作品でした。その演出が見事で、言葉として台詞を発するシーンはなかったのに、馬頭琴の音色が「おとうさーん」と聞こえて、これが正解かどうかは関係なく、そう聞こえてしまったことが一大事で、「もう役者なんていらんやん。言葉を話すってなんて嘘っぽいんだろう。役者の仕事って何だろう」と唸りました。
たまたまその作品の関係者からきたさんの作品のつくり方を聞く機会があり、真似をしてみようと思って試みたのが演出・出演を担当した『声』というジャン・コクトーの一人芝居です。きたさんは創作段階で勉強会をしっかり行っておられるということで、『声』ではSPACの寺内亜矢子さんに翻訳だけでなく勉強会の講師も依頼しました。フランス文化からはじまり、フランスではこの戯曲はどう使われているのかといった事例などを幅広く教えていただき、これもまた衝撃で、自分がいかに何も知らないかということに気がつきました。それは勉強会の内容も、勉強会から作品を立ち上げるというきたさんの方法も、「自分もできると思っていたのにこんなにできない」という無力さを感じずにはいられなかった。
寺内さんがあまりにも楽しそうにスラスラとフランス文化について話してくれるので、自分も同じように勉強できるんじゃないかとか、きたさんのように勉強会から作品を立ち上げて公演をできるんじゃないかとか思ったのですが、いざやってみると、そんなに簡単にはできなかった。「私にもできそう」と思わせてくれて、うまさや凄さにすら気づかせない。一流ってこういうことだと思います。
そういう俳優になりたいです。「中村さんうまいよね」ではなく、「なんかいいよね」と。子どもたちからは真似ができそうと思ってもらいたいです。
今、過渡期でものすごく悩んでいる時期です。でも外に出たことで井の中の蛙だったことを思い知りました。よくできたことわざですよね。おかげで悩むことができ、次に向けてどう進んでいくのか今必死に動いて、考えているところです。少し先のことさえ分からない状況ですが、最終的に自分はどこにたどり着けるか楽しみです。
プロフィール
舞台俳優。1994年奈良県生まれ。2016年に劇団飛び道具に入団。その後、2017年に自身の劇団「安住の地」を旗揚げ。以降、代表を務めながら主に俳優として活動する。他劇団への外部出演も多数。関西にとどまらず、国内17都市、海外(ドイツ・イギリス)などでも上演経験をもつ。
京都女子大学教育学部卒業、小学校教員一種免許取得。俳優ワークショップ、未就学児~高校生に向けた演劇ワークショップ、大学での特別講義など、指導育成に関わる活動も行っている。また「関西舞台芸術シーンの再興/再考」を軸に置きながら、プロジェクト単位で立ち上がる運動体“西陽〈ニシビ〉”の メンバー。
大阪府立東住吉高校 特別非常勤講師(2022-)、立命館中学高校 演劇部 外部コーチ(2022-)、京都舞台芸術協会 理事(2024-)