流れに身をまかせて
金澤韻|京都在住歴 1年
インディペンデント・キュレーターとして近年まで上海を拠点に活動してきた金澤韻さん。これまで国内外でどのような経歴を積んでこられたのか気になるところです。美術に出会うまで、学芸員時代、そしてインディペンデント・キュレーターとしての活動に大きな影響を与えた海外でのお話、京都での暮らし、そして今後の展望をお話しいただきました。
取材・撮影場所は金澤韻さんと増井辰一郎さんの二人からなるアート・コンサルティングファーム、コダマシーンの事務所とその近所の鴨川、高瀬川。
取材:2024年1月
美術史との出会いは、夏目漱石の「草枕」
生まれは神奈川県で、藤沢から横浜の高校に通っていました。頻繁ではないですけれど、横浜駅周辺や中華街で遊んだ記憶があります。高校までは文学や音楽が好きで、東京の大学に入学し文学部国文学科で4年間、近代文学の研究をしていました。卒業論文は明治の文豪、夏目漱石の「草枕」について書いたのですが、その主人公である「画工」について当時の私はその言葉すら知らず、「画工とは何か」という基本からむさぼるように歴史を紐解いていきました。そうしてようやく、作品の舞台でもある明治時代あたりで美術の潮流が変わったのだということを初めて知りました。日本のエリートが西洋の美術を輸入していった経緯、美術という言葉がつくられた時代とも重なるということ、留学先のロンドンで感銘を受けた水彩画を漱石自身も嗜んでいたため、草枕の画工も油絵ではなく水彩画の画工だっただろうなど、さまざまなことが繋がっていく様が非常におもしろく、「草枕」をきっかけに美術史にのめり込んでいきました。
さらに、絵と言葉が一体になっている表現形式として、子供のときからよく読んでいた漫画が、これほど繁栄しているのは世界の中でもどうやら日本が突出していることにも気づきました。それにも関わらず学校教育の中で漫画が表に出てこなかったのは一体どういうことなのかと思い調べていくと、明治の近代化の歴史と密接に関わっていたことが見えてきたんです。
こうしたことをきっかけに、漫画の研究をしようと思い、東京藝術大学の大学院を受けることになりました。当時は一般大学から芸術系大学に入学する人なんていなかったし、まわりの人たちからは絶対に落ちると思われていましたが(笑)。
研究室から追い出される形で学芸員を目指すことに
無事に合格し大学院では漫画の研究をしていましたが、学部時代の文学研究でも大学院時代の漫画研究でも、文化と政治の間で一般民衆が美術や文化をどういう風に考えて、どう受け取って、どう表現してきたかにずっと興味があって研究をしてきたんだと思います。今振り返ると、ポストコロニアリズムの研究だったと言えるかもしれません。
就職のことはあまり考えていなくて、当時一般的だったオーバードクターをして博士号を取るつもりでいたのですが、博士後期課程3年のときに学校から「アトリエが狭いので出ていってください」と言われてしまい、急遽就職活動をする羽目になりました。しかし、大学の就職相談コーナーで学芸員の仕事に興味があることを伝えると「絶対になれないからやめておきなさい。教員なら8人に1人は受かるから、教員採用試験を受けなさい」と言われる始末。私が生まれたのは第二次ベビーブーム世代、とにかく人数が多い世代で競争が激しかったため、そうした助言をされたのだと思います。
それでもめげずに、学芸員になられた大学院の先輩に話を聞いてみることにしました。すると、「求人が出たら全国どこでも受けなさい」と言われたんです。「何県でも、何市でも、全部受けて、受かったところに行きなさい」と。必ずしも自分の専門でなくても、ちょっとでも重なっていたら練習になるから全部受けなさいというアドバイスでした。若い頃って、なんとなく生まれ育ったところで就職して住み続けられたらいいなって思うじゃないですか。私もその一人だったんですが、そのアドバイスを聞いてそうした甘えは全部捨てて、関東から遠い場所でも採用試験を受けました。就職が決まったのはギリギリのタイミングでした。3月に大学のアトリエから荷物を全部出して、車に積み込んで実家に帰る途中、熊本市現代美術館準備室から電話で「金澤さん、熊本に来てくれますか」と連絡がありました。そのときは、安堵と喜びで興奮しましたね。
ニューヨークで体験した東日本大震災
2001年から熊本市に移り住み、熊本市現代美術館の準備室に入り、2002年の開館から2005年の途中まで学芸員として勤めました。その後、神奈川県の川崎市市民ミュージアムの漫画の担当をされていた学芸員の方から後任を探していると連絡をいただき、そちらに移りました。キャリア的にも専門性を高めるのが大事だと思いましたし、当時は全国の美術館でも現代美術と漫画の研究をする人がいなかったので、唯一無二の存在になるぞ!と意気込んで転職を決めました。
ただ、川崎市市民ミュージアムでの思い出はけっこう辛いことが多くて。簡単にいうと、漫画部門の学芸員は入場者数を稼ぐことを期待されていたんです。有名なタイトルや漫画家の個展を開催してファンがたくさん来ればいい、研究やアカデミズムは求めていないという無言の圧力がありました。
漫画部門には、「漫画」と呼ばれる領域に関する資料が約300年分ありました。浮世絵や版本、海外雑誌に載った風刺画、伝単、縁日で売られた赤本から、油絵や映像作品まで。この数百年間、漫画という言葉でくくられるものや概念はものすごく変化しています。文化はある一つの枠の中で似たようなことが起こっているのではなくて、そういうダイナミズムを持っているものだから、どんどん変わっていきます。その時代の人たちが何をおもしろいと思っているのか、どんなものからぞくぞくするような興奮を受け取っているのか。学芸員としてそれを大事にして来場者に見せることをしたいと思っていたので、圧力に負けまいと、古い資料や最新の研究に基づいた展覧会もしましたし、もっと広い意味での表現との接続も大事にして、現代美術の展覧会もやっていました(笑)。おかげさまで、今でもすごく良かったと言ってくださる方もいらっしゃいます。
余談ですが、私が川崎市市民ミュージアムを2013年に退職した後、2019年に台風で収蔵庫が全部浸水してしまいました。保管していた資料はかなりの部分が影響を受けたようです。実は私が赴任した当時、漫画部門の資料はあまり整理されていなかったんです。なので、資料が入っている箱を全部開けて、写真を撮って、カードを作るという目録の作成作業を4年ほどかけてやりました。収蔵庫に鉄製の稼働棚を入れて、きれいに収め、これで私は一つ後世に残る仕事をした、何十年も後の人たちが資料を探す際に困らなくて済むだろうと達成感でいっぱいだったにも関わらず数年後には台風で沈んでしまい、文字通りすべてが水の泡になりました。学芸員としていろいろな苦楽を経験した川崎時代です。
文化庁の海外派遣研修生としてニューヨークに行ったのも、川崎市市民ミュージアムに勤めていた2011年でした。2008年に出張でデンマークに行ったことがあったのですが、その出張先に文化庁の在外派遣で来られていた研究者の方に出会いました。その方が本格的には応募を考えていなかった私の背中を押してくださったんです。「韻ちゃん、絶対いけるよー!」って根拠が無いんですけど(笑)。じゃあやってみようかという気持ちになりました。
これも余談ですが、デンマーク出張の直前に最初の結婚が破綻したんです。思い描いていた人生とこれから全然違う人生を生きなければいけない、と失意のどん底のときでもありました。だから海外にしばらく行ってみるのもいいかもしれないと思ったんです。応募してみたらありがたいことに受かって、ニューヨークに行くことが決まりました。
そして、ニューヨークでの体験が後の私に大きな影響を与えることになります。
2011年、私がニューヨークにいるときに東日本大震災が起こりました。
そのときの報道の仕方や起こっていることに対するトーンが、日本国内のニュースと海外とでは全然違ったんです。もちろん日本が混乱していたことも影響していると思いますが、日本は情緒にフォーカスするような報道がすごく多いと感じました。そして、生まれてこの方私はこのトーンの中で生きてきたということに気づきました。翻ってアメリカやほかの国のメディアを見てみると、何が現場では起こっていて、何が議論されていて、どんなことが考えられていて何が課題なのかといった非常にプラクティカルな内容の報道でした。
どの国にも固有の社会のモードがあると思いますが、私が日本にいるときは日本のモードの渦に巻き込まれて見えなくなってしまうものがあるように感じられました。社会の中で多くの人が当たり前と感じているものに絡めとられていくようなことが。そして同じ苦労をするなら、海外で文化の違いに苦しんだほうが、どうにか前を向いて頑張ろうという気持ちになれると思ったんです。これに気づいたことは強烈な体験でした。それから、これまで海外旅行も少ししか行ったことがなく、ずっと日本にいた私は、しばらく海外に住まないといけないと思うようになりました。
帰国後に英国王立芸術大学院大学(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート:RCA)を受けて合格し、川崎市市民ミュージアムを退職した2013年から2年間ロンドンに住みました。東京藝術大学では専門性を深めたというより広げる学びが多かったのですが、RCAではCurating Contemporary Artコースで本格的にキュレーティングを鍛えることができました。RCAでのキュレーティングについての学びはnoteで公開している「ロンドン遠吠え通信」に書きましたのでご覧いただけたら嬉しいです。
RCA卒業後も海外に住みたいと思っていたので、パートナーの増井辰一郎と相談して、彼の仕事の繋がりが深い上海に住むことになりました。それを決めたときはすでに日本の仕事がいくつか決まっていたのですが、フリーランスキュレーターとしてどこでも仕事ができると考えていました。同時に、せっかく海外に身を置くのだから日本の仕事だけにならないようにしようという意識は強くありました。ロンドンから3ヶ月だけ日本に帰ってきて、すぐに上海へ移りました。
日本に出張して、上海に帰宅する
上海には2016年から住み始めました。でもその時点で決まっていた茨城県北芸術祭のために、2016年の半年間、茨城に単身赴任していました。住んでいたのは単身者用のアパートで、部屋にこもってずっとパソコンを打っているか現場に行くかという仕事漬けの日々を送っていました。上海に1ヶ月に1度帰るときは、自分のスペースでくつろげることを噛み締めていましたね。どこの国だろうと自宅というのは一番居心地が良いです。2017年からは十和田市現代美術館の仕事があり、日本に出張し、上海へ帰宅する生活を3年間続けました。上海へ引っ越したのに、日本での仕事が多かったのは皮肉ですが、視点が動くだけで全然気分が違うので、すごくおもしろかったです。
でも実は中国ではほとんど仕事になりませんでした。中国では3つの展覧会に携わりましたが、かなりヘトヘトでした。ビジネスマナーの違いに加えて熾烈な検閲があり、アーティストと検閲者との間に入る体験は難しいものでした。たとえ中国での仕事であろうと、アーティストからの信頼を失うことはもちろん避けたかったので、身をすり減らしながら仕事をしていましたね。中国で生まれ育ったキュレーターたちは、そうした状況下でもやっていくしかないと頑張っているし、本当に頭が下がる思いです。彼らのことを応援していますが、外国人である私はもう頑張れないと思っていた頃にちょうど新型コロナウイルスの蔓延や上海ロックダウンなどが起こり、日本へ帰る後押しとなりました。当時、増井とのユニット、コダマシーンとして関西で大きな案件を抱えていたことや、増井が京都で学生時代を過ごし馴染みがあったことから、自然と京都が移住先の候補になりました。振り返ってみると、これまでも土地を選んで移動するというよりは、そのとき最適な場所、流れに身をまかせて決めてきたのだと思います。
京都は文化、自然、都市機能において世界屈指のバランス
京都は学生時代によく遊びに来ていました。あの頃はスキーやスノーボードが若者の間で人気だったのですが、私は神社仏閣を巡っていました。当時はツーリズムも加熱していなくて、どこも空いていたのでとても良かったですね。みんなの知らない楽しみを味わっているんだという高揚感に浸っていた大学生時代でした。
今はたまたま京都に住むことになったわけですが、改めて京都は素晴らしい町だと感じる日々です。京都芸術センターのような先鋭的な施設、KYOTOGRAPHIEやKYOTO EXPERIMENTなどの芸術祭に加えてHAPSのような才能のある若手の雇用を創出するなど新しい文化の形をつくっていく取組をしている団体がいます。私は現代美術がない場所では生きていけないと思っていますが、私にとって京都は水を得た魚のように過ごせる町です。
一方で豊かな自然もすぐ近くにあるので、これも大きな魅力の一つだと思います。上海はすごく自然が少ないんですけど、そこから自然も歴史も文化も深みがある京都に引っ越すというのは心がときめくことでした。鴨川や伏見稲荷大社はよく散歩していますし、伏見稲荷がその一部である京都一周トレイルも魅力的です。いつか制覇したいです。
東福寺の紅葉は涙が出そうなほど感動しましたし、知恩院の「ミッドナイト念仏in御忌」は非常におもしろかったです。文化も語ろうと思えば語りつくせないほど物語に満ちた町ですよね。事務所近くの高瀬川沿いに生えている木を一本とっても、これはいつから生えていて、どんな風景を見てきたのだろうかとか、ふらっと移住してきてまたどこに行くか分からないような私とは全然違う、存在自体が物語のような方もたくさんいらっしゃる。
最近教えてもらった場所に、歌集を中心に取り扱っている書店「泥書房」があります。併設のライブラリーでは入手しにくい歌集が集められ、読みたい放題。文学を学んでいた身としては、心のアジールを見つけたような気持ちになりました。そうしたことが、一々深いですよね。また、都市機能もしっかりしているけれど、コンパクトなので移動に時間もかからない点が首都圏とは違うところです。どれをとってもこのバランスの良さは世界屈指だと思いますね。現代美術だけでなく、自然、歴史、神社仏閣すべてが私にとって水なので、本当に気持ちがよいです。
住んでみて気づいたのは、町全体がドラクエっぽいところです(笑)。コダマシーンの事務所の大家さんが近くでおでん屋さんをされているんですけど、そこに行くと町内会長さんが呑んでいて、しばらくすると自治会長さんが来て呑み始めて、隣の五条モールの方が食べに来るとか。ごみの捨て方が分からないから町内会長さんに聞かないといけないと話していたら、近所の方が「さっき歩いているのを見かけたから、今ならまだいると思うよ」と教えてくれて、本当に歩いていらっしゃったり。この世界観が私にとっては新鮮でおもしろいです。これも町のサイズ感が関係しているのだと思います。
コダマシーンの事務所は増井の友人で、建築家の魚谷繁礼さんに紹介していただいた不動産屋さんが「そういえば」とぽっとこの物件のことを思い出して紹介してくれました。この界隈は菊浜地区というところで、昔は五条楽園という遊郭があった場所なんですが、法律が変わったことでだんだんと遊郭がなくなっていったと聞きました。今はちょっとおしゃれなお店や任天堂創業の地に丸福楼というホテルができたり、新しいお店のために工事が始まっていたりと様子が変化しつつあります。私たちが生業としている現代美術やデザインの仕事は、未知のものを見出したり育んだりしていく領域だと思うので、私たちにとっても既存のにぎわった場所よりは、この地域がちょうど良いと感じてこの物件に決めました。
コダマシーンは京都の中だけで仕事をするのではなく、海外の作家と何かをしたり、逆に京都や関西の作家さんを別の地域で紹介することもあるかもしれないし、ちょっとしたハブのような機能を果たすだろうと思います。そうした意味では、京都の人間関係だけで成り立つ働き方にはならないだろうという点で、一般移住者の方とは違う視点で町や人々と関わりを持っていると思います。とはいえ、交友関係も生活する上では大事なことだと思っています。事務所から徒歩1分の場所に、福原志保さんと蔡海さんのスタジオがあって、時折小さい集まりを開いてくれていて、そこに集まる友人たちも一緒に、よしなしごとを語らったりしています。土地の魅力だけでなく、どんな人がいるのかも町にとって大事な要素だと思います。
京都での今後の活動を考える上では、展覧会をしつつ、国内外の作家に短期や中長期で滞在してもらえるアートセンターのようなものを作ってみたいです。他にも、アーティストのためのスタジオもやれるといいですね。イメージはニューヨークのクイーンズやブルックリンにある廃工場を活用したスタジオです。そこでは定期的に200〜300人ほどの作家のオープンスタジオが行われ、アートファンやコレクターやキュレーターたちがスタジオをハシゴします。アーティストにとっても制作だけでなく助成金やリサーチなどについて日常的に話せる場として、連帯を感じられるような場所ができればいいなと考えています。まだ京都に住み始めて1年ほどですが、これからが楽しみです。
プロフィール
現代美術キュレーター。これまで国内外で多数の展覧会を企画。トピックとして、グローバリゼーション、ニューメディアアート、そして日本の近現代における文化帝国主義を扱い、時代・社会の変化とともに変容する人々の認識と、私たちに精神的な困難をもたらすものを捉え、問題解決の糸口を探る。
東京芸術大学大学院美術研究科、および英国王立芸術大学院大学(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート:RCA)現代美術キュレーティングコース修了。熊本市現代美術館など公立美術館での12年の勤務を経て、2013年に独立。2017年4月から2020年3月まで十和田市現代美術館の学芸統括としても活動。CIMAMメンバー。コダマシーン Code-a-Machine(金澤韻+増井辰一郎)ファウンダー、アーティスティックディレクター。現代美術オンラインイベントJP共同主宰。