源氏物語に魅了されて。京都らしさへの憧れと、ごった煮感のおもしろさ
谷崎由依|京都在住歴 27年
育児に奮闘しながら、大学での仕事、執筆活動とめまぐるしい日々を送る谷崎さん。憧れていた京都生活と実際の大学生活とのギャップを乗り越え、大変だったことも笑い飛ばしてお話しされる様子が印象的です。
取材・撮影場所は京都御苑の近くにある老舗喫茶店、茶の間。
取材:2024年1月
源氏物語の舞台、京都への強い憧れ
京都に来たのは大学進学がきっかけですが、京都に対する謎の憧れが幼少期からずっとありました。本をただせば、祖父が持っていた源氏物語のビジュアル本だったんです。かなり小さい頃に読んでいて、絵や写真がいっぱいだったのでその世界に魅了されていました。それで平安時代、源氏物語の舞台であった京都に行きたいという強い憧れになりました。
中学生のときは自由な学校だったので、のびのびと生活していたのですが、高校はしんどいことが多かったです。その状況が影響したのか、高校で戯曲を書き始めました。でも、自分で書いた戯曲を自分で演じたら嫌になってしまい演劇もやめてしまいました。そして高校1年生の終わりには、学校をやめたいとまで思い詰めました。でも親に説得され、通い続けることにしたものの演劇はもうできなかったので、勉強しかすることがありませんでした。
というのも通っていた高校が進学校で、目指す大学の偏差値が高ければ高いほど喜ばれました。今となっては専門性を考慮して大学選びをすればよかっただろうと思いますが、当時は入試問題から京都大学の自由な校風を感じ、自分に合いそうだと感じて選びました。また、卒業旅行で伏見稲荷大社の千本鳥居を見たとき、その美しさに感動したことを今でも覚えています。こうした経験からも私が思い描く京都は、日本の美しさや神秘が凝縮された場所でしたし、高校生のときは「国文学が学べる大学に入ったら、私は憧れていた世界に浸るんだ」「絶対に京都へ行くぞ」と静かに胸を躍らせながら勉強をしていましたね。
世界ってめっちゃ広い
それにもかかわらず、入学した京都大学は全然そんな雰囲気はなくて衝撃的だったのですが(笑)京都出身の人ももちろんいますが、むしろそうではない人の方がものすごく多くてコスモポリタンのようでした。おまけに、源氏物語とかラブロマンスとかをわざわざ勉強するの?という雰囲気も痛かったです。
現代思想の本を読みまくっている人たちと知り合ったり、経済学部の地下でやっていた浅田彰氏の勉強会に連れていってもらったり。みんなとにかく弁が立つし、口下手なわたしは頭が悪いのだと、遅れを取り戻さなければならないような焦りも覚えました。それは大学では小説を書こうと思っていたこととも関係していて、そのためには広く世界の文化や思想を学ばなければ、国文学なんてやっている場合ではない、と繋がっていったのだと思います。今はそんなふうにはまったく思わないのですけれど。
1人暮らしで引きこもることも多く、思いつめているうちに、大学2年生のときに日本を飛び出したくなり、最初に向かったのがオーストラリアでした。空港に降りて、初めて見たその地平線ののびやかさ、美しさにあまりに感動し、「世界ってめっちゃ広い」と思ったんです。それまで海外経験が少しはあったものの、このときほど心に響いたことはなくて。
その後に行ったチベットは世界で1番高いところにある街ですが、空が青くて、こんな場所もあるのかと思いました。「死ぬならここで1人で死のう」と思ったくらいに20歳の私にとって心を打つ景色が広がっていました。
それまでは受験勉強もけっこう頑張って大学に入り、入学したら国文学を専攻して言葉を磨き、創作をする、と自分なりにシミュレーションしてきたはずでした。それがわからなくなって、ひどい虚無感にとらわれた。燃え尽き症候群ですね。でも、わからなくてもいいんじゃないか、そんなに思い悩む必要なんてないんじゃないかと、地平線を見て思えました。海外に出たことで、それまではまっていた枷が1つ外れたような感じでしたね。
その流れで1年ほどイギリスにも行きました。当時はかなり心も身体もぎゅーっと堅くなってしまっていたので、先のことは考えずに好きなことをやらせてもらおうと思いました。絵で食べていくつもりはありませんでしたが、1年間の基礎的な美術のコースに通い、ひたすら絵を描いていました。それが本当に楽しくて。
おかげで帰国後は普通に生活ができるようになりました。海外を渡り歩くうちに、それまで気になっていた世間体とかを捨ててこれた気がしましたね。帰国直後は絵を描こうと思っていたのですが、「そういえば、私、小説を書きたかったんだ」と思い出しました。それで美学美術史学科に在籍していたけれど、文学を研究したいと、指導教官だった岩城見一先生に相談しました。すると、文学もアートだから、と私の意向を認めてくださり、当時1番興味を持っていた分野に詳しかったナボコフ研究者の若島正先生のところへ通うようになりました。
また、イギリスのアート・コースで学んだことが、結果的には今の文学創作に活きているとも感じます。そのコースでは古典的なものだけでなく、非常にコンテンポラリーな作品の模写もたくさんすることで、さまざまなタッチに触れることができました。
それまで小説を書く際、完全にゼロからのオリジナルでなければいけないと思っていましたが、模倣から入るというやり方があることに気づきました。だから、小説を書いていて、どうしたらいいか分からなくなったときは、たとえばガルシア=マルケスを分析してみようなどと思えるようになりました。そこで何が行われているか、1つ1つ見ていくと、また自分の創作に戻っていくこともできます。
世界思想社でのバイトの傍ら執筆
当時は就職氷河期で、大学院を出た高学歴の、しかも女である私は当然のように就職できませんでした。アルバイトをしながら、吉田寮なみに古くボロボロの家に友人たちと住んで執筆活動を続けました。そのアルバイト先が世界思想社で、教学社名義で赤本も出している会社です。2007年に「舞い落ちる村」で文學界新人賞をいただいたのですが、実は私と近い回に、同じアルバイト先から同賞でデビューした方が2人も出ています。立て続けに世界思想社から受賞者を輩出することになり、こういうことが起きるのも京都の不思議なところだと思います。自由度が高い職場で、いろいろありましたが最終的には執筆に集中することができました。
ただ、新人賞受賞後は鳴かず飛ばずの時代が長かったです。中編小説の依頼を受けては何作も書きました。でも文芸誌の掲載止まりでいっこうに本にならず、そんな状態が、近畿大学での仕事を始める2015年まで、8年間続きました。中編小説は苦手だとも感じていたので、苦しい時期でしたね。
近大での仕事が始まってからは忙しすぎて、書きたいものしか書けませんという状態になりました。それでずっと書きたかった長編小説を書いたら、本になり、それ以降も本が出るようになりました。自分では引きこもって創作するタイプだと思っていましたが、忙しい方がいいのかもしれません(笑)
また、新人賞を受賞すると翻訳の仕事が増えました。たまたま縁が繋がった感じでしょうか。それまでは短い翻訳の経験しかありませんでした。授賞式で上京した際に、翻訳でお世話になっていた編集者の方にもあいさつに伺った流れで早川書房の方と知り合い、本格的に翻訳のお仕事をいただくようになりました。無理かもしれないとも思いましたが、おもしろそうだったので、「やります」と言ってしまったんです。勉強しながら翻訳の仕事にも取り組んでいきました。
翻訳の仕事が小説を書くときにも影響する
小説を書くのと翻訳とでは頭の使い方が全然違います。おもしろいことに、私の場合は翻訳の仕事が小説を書くときに良い影響を与えてくれています。翻訳を音楽に例えると、すでにある譜面をどのように演奏するか。小説は、譜面から自分で起こさないといけない。だから、すごく良い作品の翻訳をするときは、どんどん自分の中に入ってきて、自分の小説もちょっと良くなりそうな感じがしています。
『遠の眠りの』は、コルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』を訳した直後に書き始めたので、すごく影響を受けています。それは『遠の眠りの』の執筆中から感じていました。もちろん、影響を受けることに不安もありますが、今回のように文化的背景が全く違う作家から大きなところで影響を受けるのは、むしろ意識的に取り入れてもいいのではと思います。
『鏡のなかのアジア』は、様々な作家や作品が念頭にありました。かなりガルシア=マルケスに寄せた短篇も入っていますが、同時にボルヘス的なこともやりたかったので、アジアを書かなかったボルヘスがアジアを書いたなら、というていでも書いてみました。
また、マルグリット・ユルスナールの『東方綺譚』という短篇集も意識しています。 フランスの作家であるユルスナールから見た東なので、イスラム圏や極東の日本も含まれている本です。そういうものをアジアにいる自分の視点でやってみたらどうなるだろうか。翻訳という経験も経て、欧米の言葉を通して1周回ったところから見てみたかったんです。
大学で教えている学生にも、本をたくさん読んでそこからたくさん受け取りなさい、と言っています。優れた作品は、他のいろんな優れた作品を思い出させる部分が多いと思うので。
『遠の眠りの』では、地元福井のことを意識的に描いています。地方出身であることは一種のコンプレックスでした。でも、だからこそ、書くのだと思います。
2018年に行われた、私が勤めている近畿大学の文芸学部設立30周年記念トークイベントで、松浦理英子さんが、学生向けにお話しされていたことが非常に印象的でした。端的に言えば、マイノリティとして書いてください、というメッセージです。どんな人も自分の中にマイノリティ性を持っている。その部分を大事にして、作品を書いてください、と。それを聞いたときに、私のマイノリティ性は何だろうと考えました。そして、やっぱり福井のことかなと思いました。
中高生のときに山田詠美や村上春樹を読んで、文学は、都会を舞台にした男女の恋愛ものを書かなければいけないと思っていました。けれど、ガルシア=マルケスを読んだとき、「田舎のことを小説にしていいんだ」と思ったんです。むしろそれがめちゃくちゃおもしろい。それから、自分自身がずっとひいおばあちゃんに育てられてきたことや、福井出身であることなど、自分の中の少し変わったところを認められるようになり、意図的に作品に反映させています。
作家によって発想の根っこにあるものが場所である人もいれば、人である人もいると思いますが、私は土地のことを思い浮かべて作品が降りてくるタイプです。『遠の眠りの』は福井が舞台ですし、『鏡のなかのアジア』は、台湾の九份の話を書いたところから連作が始まりました。自分が行ったことがあって、インスピレーションを受けた土地を舞台にしています。
出産前後でまちの見え方が変わった
今、文芸誌「すばる」で連載している作品で、出産について書いています。幼少期のことを描こうとすると、自分の福井での幼少期を思い出し、やはりそれが作品に影響を与えていると感じることもあります。また、私自身が育児中なこともあり、出産前後で町の見え方が変わりました。ベビーカーやオムツを交換できる場所があるか、といった目線で町を見るようになりました。
買い物も今までは四条に行くことが多かったけれど、子連れだと近場で済ませることが増えました。児童館の図書室で絵本をたくさん借りられたり、幼稚園が近いことも助かっています。もともと私立の認可保育園にしようかと考えていたのですが、市立幼稚園の取り組みがおもしろそうでそっちに決めました。祇園祭に連れて行ってもらったり、茶道の時間があるなど、京都の地域のことを子どもなりに体験させてもらえる機会がたくさんあります。市営であるからこそ、京都市の方針と幼稚園の方針が重なっているのだと感じます。先生方が娘のことをよく覚えていて可愛がってくださるのも、子どもにとって良いところだと思っています。
あと、京都御苑によく行っていて、どんな世代も使いやすい環境だと思います。児童公園や東屋もとても整備されています。先日、いしいしんじさんからお聞きしたのは、コロナ前は絵本が置いてある場所があったとか。大学生時代から御所のベンチで1人で本を読んだり、今も煮詰まったときは原稿を書いたりすることもあり、ずっとお世話になっている大好きな場所ですね。
京都って不思議なまち
私が京都らしいなと思うのは、寛容なところです。よくあるイメージだと、一見さんお断りだったり、いけずと言われることが多いですよね。コアな部分はそうかもしれないけれど、大学が多いので全国からいろんな人が集まっているし、海外から来た人もたくさん住んでいて、風通しの良さを感じています。
子どもが小規模保育園に通っていたときから仲の良い友だちはルーマニアの子で、幼稚園で仲良くしているのはオーストラリアの子だったり。うちの娘はなぜか、海外にルーツのある子と仲良くなることが多いです。ママ友も、九州や海を越えたすごく遠いところから来られた方だったりします。
学生時代にシェアハウスをしていたときは、シングルマザーの方とも住んでいたので、友人たちが集まり、大勢で子どもを育てていました。そうした友人たちと鴨川をずっと歩いたり、山に登ったり。あとは、草の根的な活動をしている人も多いけれど、その人たちを排除するような雰囲気がないこと、常にカウンターであろうとする反骨精神のようなものが感じられるのも京都のよいところだと思っています。
京都に住み続けている一番の理由は、夫の職場が京都にあるからですが、まちとしての魅力を考えたときに、近畿圏のほかの候補地と比べて自分たちには利点が多いのだと思います。ちょっと映画を観たい、美術館に行きたいと思ったら近くにあるし、KYOTOGRAPHIEなどの文化的なイベントも魅力的なものが多いです。自分の子どもにも、そうしたものに触れてほしいし、夫も絵を少し描いていたり、私も文化的なものがないとしんどいと感じてしまうので。
仕向けているわけではないですが、なぜか、子どもも歌舞伎や祇園祭といったものが妙に好きなんです(笑)私自身も、学生時代に一度は置いてきた京都への思いを取り戻したい気持ちが強くて、子どもと一緒に古い日本語や文化を味わっていきたいと思っています。斎藤孝さんが監修されている、『声に出して読みたい日本語』シリーズを数冊買ってみたら、子どもが寿限無にめちゃくちゃハマったり、歌舞伎の弁天小僧菊之助にハマったり。たじまゆきひこさんの絵本『祇園祭』には、暗記するほどハマって、長刀鉾ごっこなるものが生まれました(笑)
いつかは、京都の作品を
子どもがもう少し大きくなったら、ライターズ・イン・レジデンスにもまた行きたいし、いつかは京都を題材にした小説も書いてみたいと思っています。
といっても、京都を舞台にした正統派の歴史小説のようなものは、もちろん私にはとても書けません。かつて憧れていたような京都ももちろん好きですが、住んでみて見えた、いろいろなものが混ざっているハイブリッドな京都。その意外性のあるごった煮の京都のなかで物書きの私を育ててもらったので、私が京都を書くとしたら、やっぱり何かそういう感じになるんじゃないかと思います。
プロフィール
1978年福井市生まれ。京都大学文学部卒業、同大学院文学研究科修了(美学美術史学専修)。2007年「舞い落ちる村」で文學界新人賞を受賞し、作家活動を開始。2015年より近畿大学文芸学部勤務(現在准教授)。2017年、2冊目の単著となる長篇『囚われの島』(河出書房新社)にて、野間文芸新人賞、織田作之助賞候補。好きなことを好きなように書いた連作短篇集『鏡のなかのアジア』(集英社)で、2019年、芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。同年、大学の創作学科を舞台とした表題作を含む『藁の王』(新潮社)、大正から昭和初期頃の福井を舞台とした『遠の眠りの』(集英社)(文芸エクラ大賞受賞、野間文芸新人賞候補作)を上梓。主な訳書に、キラン・デサイ『喪失の響き』、インドラ・シンハ『アニマルズ・ピープル』、ノヴァイオレット・ブラワヨ『あたらしい名前』、ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』、コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』(すべて早川書房)がある。米国アイオワ大学や北京の魯迅文学院での滞在型国際作家プログラムにも参加。2020年に第一子を出産し、重度の切迫早産となった経験をもとに「百日と無限の夜」を「すばる」にて連載中。2023年、京都市芸術新人賞受賞。