借りを返し続ける

倉田翠|京都在住歴 18年

2023年にまつもと市民芸術館の芸術監督団に着任し、主宰するakakilikeもヨーロッパでの国際芸術祭に招へいされるなど大活躍中の倉田翠さん。京都にたどり着いたのは大学入学がきっかけですが、卒業後も京都を拠点に作品をつくり続ける倉田さんが、なぜ京都に住み続けているのかをお話しいただきました。
取材・撮影場所は、行きつけだという粉屋珈琲。

取材:2023年12月

「なんぼのもんじゃい」と挑んだ体験授業での衝撃

京都に来たのは、大学進学のためです。それまで三重県の田舎で主にクラシックバレエをしていました。両親は学校の先生だったので、ある程度恵まれた環境で育ち、獣医になるため6年制の大学を目指して理系の進学クラスで勉強をしていました。当時は大学に進学することと食べていくための仕事は直結していると考えていたし、幼い頃からバレエは”習い事”として冷静に割り切っていたので、バレリーナやバレエの先生になるということはまったく考えていませんでした。でも、京都造形芸術大学(以下:造形大、現:京都芸術大学)は知っていて、教育としてダンスが教えられていることが気になっていたんだと思います。

「ダンスの大学ってなんぼのもんじゃい」と思っていたんですよね。私はすごく怖がりなんですけど、昔から自分の知らないことに身を投じたい精神があって。試しに入試を受けてみたら、そこで体験したことがすごく衝撃的でした。そのまま夏には大学を決めてしまったので、3月まで受験を頑張る同級生たちに「芸大に行く」なんて恥ずかしくて言えなくて、内緒にしたまま勉強している振りをしていました。なので、芸大には「来ちゃった」感があります。

造形大の先生方からは今の私に繋がることをたくさん教えていただきました。

私がそれまで考えていたダンスというものをいとも簡単に打ち砕いてくる人たちだったんです。「正解」といった類のものはまったく与えられず、ひたすらに答えのないものに向き合い続ける時間でした。山田せつ子さん、太田省吾さん、寺田みさこさん、砂連尾理さん、高嶺格さん、岩下徹さんなど。彼らも本気でアーティストを輩出するんだという精神で指導してくださっていたように思います。

入学当時の私はクラシックバレエのような型のあるものが「踊り」だと思っていたんです。踊るということは習い事や技術でしかありませんでした。でもクラシックバレエだけが踊りではない。先生方が教える踊りは技術の話ではなかったんです。だからそれまで私が踊りだと思っていたもののほとんどを否定されたように感じたし、「その技術を失ったとしたらあなたは何者ですか」といった問いを突きつけられた4年間でした。

大学との出会いが、京都に来た理由でもあるし、居続ける理由になっています。卒業後も私は作品をつくり続けることになるのですが、この大学で学んだことは私にとってすごく大きいといえます。

誰かのお金で作品をつくっていると、自分が売れていると勘違いしてしまう

大学から強く就職を促されることもなかったので、卒業後は自然と就職ではなく作品をつくり続ける道を選びました。もちろん先生方も学生を路頭に迷わせるわけにはいかないので、ある程度、就職する学生と卒業後もつくり続けていけそうな学生を選んでいたのだとは思います。

でも当時は作品をつくり続ける道を選んだとしても、ダンスで食べていけるような仕事や賞をとるなら「東京に行きなさい」という風潮が今より強い時代でした。私の先輩や近しい友人も何人かは京都から東京に出ていきました。

それでも私が京都に残ったのは、おもしろい作品をつくっていたらわざわざ京都から出て行かなくても東京からお客様が観に来てくれるようになる、と信じていたから。東京への反骨精神みたいなものがあったのだと思います。ダンスのキャリアを積む上で、コンペティションで賞を取るのは王道かと思いますが、私は一切コンペティションには出さず、京都でたくさん作品をつくり発表していました。用意された枠組みに乗っかるのはリスクを取らずに挑戦をしているように感じていたのかもしれません。

すべて自力でやろうとすると、劇場を借りるお金、人件費、集客数に応じて発生する赤字などから目を背けることができません。だから卒業後は、大学4回生のときからアルバイトとして働いていたフィットネスジムのスペースをスタジオとして使わせてもらい、ここでつくった作品を主に安くで借りることができたアトリエ劇研で発表していました。多い時には1年に3回上演を行いましたね。

助成金など誰かのお金で作品をつくったり、発表したりするのは自分が売れているとか、成功の道を歩めているかのように勘違いしてしまうと思っていたんです。2018年までは。

今思うと、コンペティションなどで自分の作品がその時の”業界”みたいなものに評価されてしまうこと、または、評価されないことが怖かったのではないかとも思います。

作品をどれだけつくって、どれだけお客さんが入るようになっても、ダンサーに満足した謝礼を払えない

京都でたくさんつくり、発表を重ねていくうちにお客さんも少しずつ増えていきました。でもダンサーにちゃんと納得できる金額を払いたいと思うのに、それができない状況が続いていたんです。座組の中でダンサーの拘束時間が一番長いのに、それに見合う謝礼を払えていないと感じていました。公演の売上からはもちろん満足な金額を払えないので、アルバイトで稼いだお給料から捻出していましたが、だんだんと、どれだけ作品をつくってお客さんが入るようになっても、このままでは自分が納得する金額をダンサーに払うことができないと気づきました。

まず私自身に仕事が来ないといけないと思いました。東京で上演しないと仕事にならなかったので、『家族写真』と『捌く』という作品を自主公演で2ヶ月連続で持っていきました。このときの決断は本当に「自分、よくやった」と思っています。大赤字でしたが、それでもこの2つの作品を東京に持っていけば、作家として私がまず評価されるという自信があったのだと思います。

それ以降は順調に演出家としての仕事や、買取公演が増えていきました。それまで自主公演だったものがどんどん仕事になっていく中で、私は思いっきりギアを変えて活動するようになりました。それが2018年です。

それくらいから、それなりに私が納得できる金額をダンサーに払えるようになりました。

目標がそれだけだったんです。だから次にどうするべきかという行動の判断はとてもはっきりしていましたね。

演出家・ダンサーとして仕事をしていくためにアルバイトを辞めました。そうすると制作する場所がなくなるので、京都芸術センターの制作支援事業に申請し、稽古ができる制作室を使い始めました。公演が決まっていたので使用するための申請条件もクリアしていたし、無料で使えるなんて使わない手はないと思いました。それまで助成金は申請すらしたことがなかったけれど、今はセゾン文化財団さんからもう6年も助成金をいただいています。

今回、『家族写真』をロームシアター京都に呼んでもらえたことはとてもうれしいです。京都で作品を発表するのはずっと願っていたことなので。ホームに呼んでいただける、ということですね。

『家族写真』はアトリエ劇研で生まれた作品ですが、今年はブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デザールやパリ・フェスティバル・ドートンヌなどの海外公演まですることができました。

お金が全然ないときに、すごくすごく小さい劇場だったアトリエ劇研で初演をしてからもう8年も上演している。出演者はその分年齢を重ねているし、安く揃えられるからという理由で使っていた日本製の長机も、海外では同じ製品がないという事実に直面し、今となっては「これでないとだめ」と思うくらいこだわりの舞台美術になりました。大学で指導してくださっていた寺田みさこさんが今は演者として関わり続けてくださっていることなど、時間の経過とともにいろいろな価値が付け加わってきて、そして京都に帰ってこれたということがすごくうれしいんです。

『家族写真』は私が作家として今の状態になるまでの時間を共に歩んできた作品とも言えるので感慨深いです。

作家を待っている

つい先日成果発表を終えたTHEATRE E9 KYOTO(以下、E9)のダンス講座では、受講生たちのほとんどが京都外から参加をしていました。いろいろな場所から来ているから悩みも問題点も違います。東京のダンサーは怖いと言った受講生がいたけれど、「あなたと同じ受講生のまのちゃんは東京のダンサーじゃん。今一緒にいるやん。まのちゃん一緒に踊ろうって言ったらいいじゃん。」と話しました。どこのダンサーという“( )”を取ってしまえば一緒だから。そういう交流ってすごくうれしい。お互いに影響を与え合うこともあるだろうし、そうなればいいと思っています。

当の私は最近、京都以外の仕事が増えてきました。それは京都のアーティストだからこそ、よそ者として呼ばれているのだと思っています。でも、まつもと市民芸術館の芸術監督団の任期は6年なので松本市に移住するという選択肢ももちろんありますが、私は今はあまり考えていません。よそ者でいたいというか、だからこそできることがあると思っている。

京都に来た人たちには楽しんでもらいたいと思っています。どんなサポートや機会、コミュニティがあるのか質問されたら喜んで教えます。

やっぱり普段活動する場所ではないところにいるというのは、何かちょっと気持ちが楽になれると思うんです。普段いる場所って、知らず知らずのうちに背負っているものがあるというか。演出をやっている人であれば、 演出家としての態度、どこかに所属しているダンサーであれば、その組織のダンサーとしての存在の仕方が。だから外から京都に来てもらったときはそうした普段まとっているものを、取っ払ってもらえるようにしたいと思います。あなたにとって「どこでもない場所」に招き入れるような感覚です。

私は京都の将来を背負っているつもりは全くないけれど、E9のダンス講座の受講生を見ていて思うのは、何でも言い合える関係を築いてほしいし、また京都に帰ってきて作品をつくってほしいということです。私は京都で何を待っているかというと、作家を待っている。特にダンスで作品をつくれる人が出てきてほしいと思っています。

京都はおもしろくなると思っています。京都の人でなくてもいいから、京都で作品をつくってほしいです。やっぱり作品をつくる人が周りにたくさんいると楽しい。要するにライバルです。最近は20代前半の若い人たちから刺激を受けることが多くて、ハッとすることが多い。私が大学で先生方から教えていただいたことは大事にしているけれど、その言葉たちは古くなっていく。今は、何か輝きだしそうなものを秘めている若い人たちが、次の波を作ってくれそうだと期待しています。

先生方が命がけで伝えようとしてくれていた

大学にはすごく感謝しています。病気になるくらいショックやダメージも大きかったですが、当時は鬼だと思っていた先生も今では友人ですし、何かあったら電話したりお茶したり、一緒に作品をつくったりもします。

先生方のほとんどは東京の人だったんですが、この京都の地で7年間、真正面から学生に向き合い続けてくれました。その学科からいろいろな作家が輩出されている点からも彼らの功績がうかがえますよね。学生当時は分からなかったけれど、20代後半になってようやく先生方が命がけで伝えてくれていたということ、何を言われていたのかが分かり始めて、今では手に取るようによく分かります。私はそれらを受けて、作品をつくってきました。また、本当に困ったときに助けてくれる言葉がたくさん身体に残っています。そして今後それをどう伝達していくかを考えています。

太田省吾先生が亡くなられたときもざわっとしましたが、当時の先生方も70代に入り、何かを託されようとしている感じがあります。彼ら彼女らが大学でやろうとしていたことを引き継ぎたいみたいな気持ちもある。それらを還元する先は、京都だと思っています。

東京ではすぐお金を介した仕事としてダンスや作品に関わることができるけれど、京都はその機会が少ない分、お金ではない貸し借りから得たものがたくさんあります。

京都に借りがあると感じているのかもしれません。その借りは大きすぎると感じることがよくあります。人事を尽くしたいという気持ちも強い。この借りを返し続けるために、私は京都に居続けているのかもしれません。

プロフィール

1987年三重県生まれ。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)映像・舞台芸術学科卒業。 3歳よりクラシックバレエ、モダンバレエを始める。京都を拠点に、演出家・振付家・ダンサーとして活動。作品ごとに自身や他者と向かい合い、そこに生じる事象を舞台構造を使ってフィクションとして立ち上がらせることで「ダンス」の可能性を探求している。2016年より、倉田翠とテクニカルスタッフのみの団体、akakilike(アカキライク)の主宰を務め、アクターとスタッフが対等な立ち位置で作品に関わる事を目指し活動している。令和5年度京都市芸術新人賞。セゾン文化財団セゾン・フェローⅠ。2024年4月より、まつもと市民芸術館 芸術監督(舞踊部門)

倉田さんの京都へのたどり着き方